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「3ハン国編集

1599年にシャイバーニー朝が滅亡した後、マー・ワラー・アンナフルの政権はジャーン朝(アストラハン朝)に移行した。

ジャーン朝は1756年マンギト朝によって滅ぼされるが、シャイバーニー朝からマンギト朝に至るまでの首都がブハラに置かれたため、この3王朝をあわせてブハラ・ハン国と呼ぶ(ただしマンギト朝はハン位に就かず、アミールを称したのでブハラ・アミール国とも呼ばれる)。また、ホラズム地方のウルゲンチを拠点とした政権(これもシャイバーニー朝)は17世紀末にヒヴァに遷都したため、次のイナク朝1804年 - 1920年)とともにヒヴァ・ハン国と呼ばれる。そして、18世紀にウズベクのミング部族によってフェルガナ地方に建てられた政権はコーカンドを首都としたため、コーカンド・ハン国と呼ばれる。

これらウズベク人によって西トルキスタンに建てられた3つの国家を3ハン国と称する。

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ロシアの征服編集

13世紀に始まるモンゴル人のルーシ征服はロシア側から「タタールのくびき (татарское иго)」と呼ばれ、ロシア人にとっては屈辱的な時代であった。しかし、モスクワ大公イヴァン4世(在位: 1533年 - 1584年)によってカザン・ハン国アストラハン・ハン国といったジョチ・ウルス系の国家が滅ぼされると、「タタールのくびき」は解かれ、ロシアの中央ユーラシア征服が始まる。

このときロシアに降ったテュルクムスリムはロシア側から「タタール人」と呼ばれていたが、異教徒である彼らはロシアの抑圧と同化政策に苦しめられ、カザフ草原トルキスタンに移住する者が現れた。

16世紀末になってロシア・ツァーリ国シベリアシビル・ハン国を滅ぼし、カザフ草原より北の森林地帯を開拓していった。

同じ頃、カザフ草原のカザフ・ハン国は大ジュズ、中ジュズ、小ジュズと呼ばれる3つの部族連合体に分かれていたが、常に東のモンゴル系遊牧集団ジュンガルの脅威にさらされていた。

1730年、その脅威を脱するべく小ジュズのアブル=ハイル・ハン(在位: 1716年 - 1748年)がロシア帝国に服属を表明し、中ジュズ、大ジュズもこれにならって服属を表明した。

19世紀の半ば、バルカン半島から中央アジアに及ぶ広大な地域を舞台に、大英帝国イギリス)とロシア帝国との「グレート・ゲーム」が展開されていた。

ロシア帝国はイギリスよりも先にトルキスタンを手に入れるべく、1867年コーカンド・ハン国を滅ぼし、1868年ブハラ・ハン国を、1873年ヒヴァ・ハン国を保護下に置き、1881年に遊牧集団トルクメンを虐殺して西トルキスタンを支配下に入れた。」


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