鉄を制するものは国を制す 魏志倭人伝中の「三十国」の一つか
「木工にも使う鉄は、農業や狩猟、建築、戦闘などあらゆる分野で技術革新をもたらした」。森岡さんは鉄が社会に与えた影響の大きさを指摘する。
「鉄を制するものは国を制す」
「ともいわれた鉄は、
九州北部を中心に大量に出土することから」
「こうした中での今回の発見。兵庫県立考古博物館の石野博信名誉館長は「淡路島に大規模な鉄器工場群があったことが示された」
と指摘し、
「纒向遺跡(奈良県桜井市)を中心とする邪馬台国が大和にあり、淡路は西日本に及ぶ政治連合の一翼を担い、魏志倭人伝に記された『三十国』の一つだったのではないか」と話す。
一方、こちらも国内最大級の鉄器工房として話題を集めたのが、
滋賀県彦根市の稲部遺跡。淡路の遺跡より少し新しい弥生時代末(3世紀初め)〜古墳時代初め(3世紀中ごろ)の竪穴建物跡20棟以上から、鉄片や鉄を加工する際に出る不純物など約6キロ分が見つかった。
琵琶湖の東側に位置し、近畿や東海、北陸を結ぶ交通の要衝。
琵琶湖の水運を利用し、日本海を介して朝鮮半島から直接入手した鉄素材を加工し、
近畿や東海に供給する、独立した一大勢力があったとみられている。森岡さんはこの遺跡も
「三十国の一つだろう」と推測する。
銅鐸の宝庫 やはり淡路は特別な場所
「神の国」
淡路島は、鉄だけでなく、弥生時代の祭祀を担った銅鐸の宝庫でもあった。
南あわじ市では27年、弥生時代前期末〜中期
(紀元前3〜同2世紀)の銅鐸7個が見つかった。島内では計20点ほどが確認され、全国有数の出土数を誇る。島根県出雲市の荒神谷(こうじんだに)遺跡や同県雲南市の加茂岩倉遺跡の銅鐸と同じ鋳型で作られたものもあり、両地域の結びつきが明らかになった。
「淡路は、イザナキノミコト(男神)とイザナミノミコト(女神)が交わって次々と島を誕生させた国生みの地と伝わる。」
「神話の骨格をなすストーリーをもつ淡路と出雲に、鉄器や青銅器という重要な遺物が見つかったことは偶然ではない」と伊藤次長。石野さんも
「淡路が特別な場所だったという意識が古事記編纂(へんさん)の飛鳥時代まで伝わっていたのではないか」と古代に思いをはせた。
「鉄器 弥生時代初め(紀元前4世紀ごろ)」
「中国大陸から朝鮮半島を経て日本に伝わったとされ、九州北部から日本列島に広まった。当時は鉄板などから加工した鍛冶作業にとどまり、鉄鉱石や砂鉄から鉄を作る製鉄は6世紀
(古墳時代後期)
とされる。」
「「漢委奴国王」
金印は、天明4年(1784)に志賀島
(現在、福岡市東区)の叶崎(かなのさき)
というところで二人持ほどの石の下から発見された。発見者は百姓甚兵衛である
(あるいは秀治と喜平ともいい、この2人は甚兵衛の傭人ともいう)。発見のもようを伝えるのは、当時の那珂郡役所奉行津田源次郎に宛てて甚兵衛がさし出した
「天明四年志賀島村百姓甚兵衛金印掘出・付口上書」である。
金印を最初に鑑定したのは、当時の黒田藩西学問所、甘棠館の館長亀井南冥である。南冥は『金印弁』を著わして、『後漢書』
東夷伝に、
「建武中元二年
(西暦57年)」
「東夷倭奴國、奉貢朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭國の極南界なり、光武、賜うに印綬を以てす」
「とある漢印そのものであることを説き、金印の重要性を訴えた。
南冥の努力により、金印は黒田藩庫に納められ、永く保存されることになる。
その後、江戸時代から現在まで多くの学者が金印の考証、研究をすすめてきた」
「今日ではこの金印が、光武帝より委奴国王に賜与された印であることは疑う余地がない」
「印面には、漢隷で漢・委奴・國王の三行五文字が薬研彫りに陰刻され、鈕は蛇がとぐろを巻いて頭を右上方へ向ける姿を表わし、綬を通す孔がある」
1957年
「中国雲南省晋寧県石寨山の古墓から、
「王之印」蛇鈕金印が発見され、金印が真物であることを例示した。」
∽
余談
「(自然と)
王になるものは、先祖代々菩薩道を行ってきた」京都醍醐寺真如苑-
又、
「全ての教えは大海に通じるとも言われておりまして、京都醍醐寺真如苑大涅槃教に全ての教えは繋がってゆくと言われております」
∽
安雲氏
伊邪那美命
(いざなみのみこと、伊弉冉、伊邪那美、伊耶那美、伊弉弥)は、日本神話の女神で神世七代の7代目(妹)
伊邪那岐神(伊邪那岐命、伊耶那岐命・いざなぎ)の妻。別名 黄泉津大神、道敷大神。
「イザナギまたはイザナキ日本神話に登場する男神
『古事記』では伊邪那岐神、伊邪那岐命、」
∽
「天照大神
(あまてらすおおみかみ、あまてらすおおかみ)または天照大御神(あまてらすおおみかみ)」
「日本神話に主神として登場する神。
女神と解釈され、高天原を統べる主宰神」
「皇祖神」
『記紀』においては、太陽神の性格と巫女の性格を併せ持つ存在として描かれている」
∽
葛城氏(かずらき)
系譜
「武内宿禰
(建内宿禰)
羽田矢代宿禰
(波多八代宿禰) → [波多氏]
許勢小柄宿禰
(日本書紀なし) → [巨勢氏]
甘美内宿禰
(味師内宿禰)
石川宿禰
(蘇賀石河宿禰) → [蘇我氏]
平群木菟宿禰
(平群都久宿禰) → [平群氏]
紀角宿禰
(木角宿禰)
[紀氏]
久米能摩伊刀比売
(日本書紀なし)
怒能伊呂比売
(日本書紀なし)
葛城襲津彦
(葛城長江曾都毘古) → [葛城氏]
若子宿禰
(日本書紀なし)」
「巨勢氏
大和国高市郡巨勢郷
(現在の奈良県御所市古瀬)を本拠とした古代豪族である。
巨勢の表記は、許勢・許世[要出典]・居勢・己西・既洒[要出典]にも作る。
姓は初め臣おみであり、天武天皇13年(684年)八色の姓制定に伴い朝臣へ改姓した。
有名な朝臣姓氏族
大神朝臣 - 568年(欽明天皇29年、古墳時代)に宇佐神宮前身の鷹居社を建立した大神比義の末裔。
源朝臣 - 皇別氏族。公家では源氏長者の地位を長く保った久我家などの村上源氏、武家では源義家以降、清和源氏が勢力を伸ばし、源頼朝以降武家にとって特別な氏姓となった。足利氏はその代表である。徳川氏も清和源氏を称している。
平朝臣 - 皇別氏族。桓武平氏が最も著名であり、公家では堂上平氏として旧家2家(半家)・新家3家(名家)が残る。武家では平家が有名であり、また織田氏も称している。
藤原朝臣 - 神別氏族。中臣鎌足の子孫。長らく朝廷の重職を独占し、摂家を筆頭に堂上家の大半を占めた。武家では伊東氏、小山氏、上杉氏、伊達氏などが知られる。
橘朝臣 - 皇別氏族。県犬養三千代、橘諸兄、橘佐為を祖とする。 四大姓に数えられるが四大姓の中では最も振るわなかった。
菅原朝臣 - 野見宿禰を祖とする。文章道を管掌し、堂上家(半家)が6家残っている。
大江朝臣 - 土師諸上を祖とする。大江広元など学者を多く輩出し、武家では毛利氏などを輩出している。公家では長らく地下家だった3家のうち、代々蔵人を務めた2家の北小路家が江戸時代後期に」
「堂上家に列せられた(最後の堂上家昇格)
中原朝臣 - 十市有象、十市以忠を祖とする。
「明法道、明経道を司る家系。嫡流の押小路家は局務、市正などを世襲し、朝廷の実務、京都の行政に深く関わった。
豊臣朝臣 - 安土桃山時代に関白・羽柴秀吉に下賜され、秀吉によって多くの大名などに下賜された」