「寛仁3年(1019年)
の刀伊の入寇以降は、外寇時の責任が親王へ及ぶことが危惧されたため、例外を除いて帥宮も含めた大宰帥の赴任はなくなったとされている。ただし、親王帥の補任だけは中世以降も断続的に行われ、明治2年(1869年)の官制改革まで存置された」

「藤原不比等の推薦により元正天皇の勅命を受けて、唐の玄宗から『金烏玉兎集』
を借り受けて持ち帰るために遣唐使に命じられた」

「麻呂が玄宗に重用されて朝衡という唐名を名乗り唐において昇進を重ねていたことから、日本では天皇の勅命を捨てたという噂が流れ、逆臣であるとして所領が没収された。

代わりに吉備真備が遣唐使として派遣され、『金烏玉兎集』
を持ち帰る勅命を受けた。

「仲麻呂は唐に来た吉備真備を助け、難解な「野馬台の詩」
の解読や囲碁の勝負など何度も助力し、
『金烏玉兎集』
を持ち帰ることに成功させている。
また、仲麻呂の子である満月丸が後の安倍晴明の先祖にあたるとされる」

「東漢氏は、記紀などの記録から土木建築技術や織物」「に携わって居たことをうかがい知れる。
東漢氏の一族に東文氏があり、7世紀から8世紀頃には内蔵省・大蔵省などの官人を出している」

また、東漢氏
「蘇我氏の門衛や宮廷の警護などを担当している」
「『肥前国風土記』
によれば、602年の新羅征討計画の際には兵器の製作を担当した。
崇峻天皇暗殺の際にも東漢氏の東漢駒
(東漢直駒)が暗殺の実行役となっており、
壬申の乱の際には、
奈良時代以降も武人を出し平安時代初期には蝦夷征討で活躍した坂上氏の坂上苅田麻呂・田村麻呂親子が登場する。」
    歴史-  wikipedia 

石川麻呂
皇極天皇4年
(645年)
「中大兄皇子が中臣鎌足蘇我入鹿の裁きに
共に賛同した
(乙巳の変)」

「皇極紀」に拠れば、皇極天皇3年
(644年)
日向の異母兄であった右大臣・蘇我倉山田石川麻呂の娘と中大兄皇子(後の天智天皇)が婚約した夜に、その娘と密通した。
ただしこの件で日向がなにかしらの咎を受けた記録は無い」