幕府の討議の結果、
「只今鹿苑院殿の御沙汰を改めらるるの条々、一向彼の御非虚を異朝に仰せ顕わせらるるに相当たるべきか。
(もし今鹿苑院殿
(義満)の先例を改めるようなことをすれば、彼の虚偽を外国に言い出すようなものではないか)」
として、日本国王号を採用した。
しかし、一方で将軍が明皇帝の勅書を受ける際に将軍が拝礼することが問題になった。
交渉の結果、拝礼の儀を簡略化することで合意が成立した。
この際満済は当初反対していたが、賛成に回るにあたって
「本当の日本国王が拝礼することは神慮に背くことになるが、将軍は明側が思っているだけの日本国王なので、拝礼は差し支えない」と回答している。

7代足利義勝以後の将軍が明の冊封を受けた事実は確認できない。
だが、宝徳3年(1451年)に8代将軍足利義成
(後の義政)が明の景泰帝に使節を派遣した時の上表文および景泰帝からの勅諭に用いられている義成の称号は「日本国王」であり、明側においても実際の冊封の有無を問わず、武家政権の長である義成(義政)を国王として認識していたことが分かる。

なお、義政は家督を息子の義尚に譲った後も、祖父・義満に倣って
「日本国准三后道慶」
と署名した書状を朝鮮に送る
(『善隣国宝記』
所収文明18年遣朝鮮書及び
『蔭涼軒日録』
文明18年7月2・11日条)
など、外交面においては主導的な立場を保持し続け、
「日本国王」の地位を終生手放すことはなかった。

その後も足利将軍は明や朝鮮では「日本国王」と認識されていたが、細川氏や大内氏、宗氏などが実際の外交の実権を握った。

日本国王の上表文が偽造される場合もあった。
義満の金印は戦乱により消失したため代用品として木印が用いられた。
大寧寺の変の後に大内義長により作られた木印は毛利元就の手にわたり毛利博物館に所蔵されている。

なお、大内義長と毛利元就は木印の保有者として日明交易の再開を求めたが簒奪者として朝貢を認められなかった。

日明関係は1547年
(天文16年)の遣明船で断絶したが、1581年(天正9年)と1583(天正11年)
に朝鮮国王が日本に送った国書の宛先の「日本国王」とは室町幕府の15代将軍足利義昭であった。

豊臣政権
明皇帝勅諭(複製)より抜粋。
国立歴史民俗博物館展示。
安土桃山時代、文禄の役の講和折衝にあたり、秀吉は朝鮮の領土割譲、明皇女の降嫁、朝鮮王子の人質などを要求したが、現場担当者がこれを握り潰し、秀吉に降伏の意志があると伝えて和議が成立した。
これを受けて明の神宗万暦帝は豊臣秀吉に誥命(こうめい)を与えたが、そのなかに、
「茲に特に爾を封じて日本国王と為す」
の一文があった。
このとき、皇帝の臣下である国王とされたことに激怒した秀吉が誥命が書かれた国書を破り捨てたなどの逸話があるが後世の創作であり、実際には国書を下げ渡された堀尾吉晴が保管しており、現在も重要文化財(「綾本墨書 明王贈豊太閤冊封文」)
として大阪歴史博物館に所蔵されている。
島津義弘が息子の忠恒宛てに出した書状には1596年(慶長元年)9月1日に明の使節に対面した秀吉はご機嫌であり、冊封そのものに秀吉が反発した様子はうかがえない。しかし朝鮮王子が来日しなかったことが原因で講和が破れ、戦争が再開したという。

ルイス・フロイスによると、明使は
「明帝が秀吉を日本国王に封ずる旨を書いた板」
を掲げて堺から大坂に向かったと伝えている。
 
明王贈豊太閤柵封文(複制) 秀吉清正記念館
江戸幕府
秀吉死後の徳川家康は明と朝鮮に対して戦後処理交渉を始め、明や朝鮮への人質の送還を命じ、1600年
(慶長5年)8月には商人島原宗安が坊津を出港し、
人質の茅国科(茅国器の弟)を福州経由で北京まで送った。
1606年(慶長11年)冬に朝鮮へ送った国書では
「日本国王」を家康が称し、かつて秀吉が受け取った日本国王の金印が押された。