「臺與 / 壹與(台与 / 壱与、とよ / いよ、
235年 - 没年不明)
は、日本の弥生時代3世紀に、
『三国志 (歴史書)・魏志倭人伝』
中の邪馬台国を都とした倭の女王卑弥呼の宗女である。
卑弥呼の後継の男王(名は不明)の次に、13歳で女王になり倭をまとめたとされる。
魏志倭人伝中では
「壹與」であるが、
後代の書である
『梁書倭国伝』
『北史倭国伝』では「臺與」と記述されている。」
∽
ヤマト王権(天皇)
[有力豪族が皆で担っていた
][ヤマト朝廷
(ヤマト[日本]広域連合)は、
下記{}内前迄は、天皇や公家集中型体系ではなかった]
{大化の改新645-650年
(天武天皇)
「この改革によって豪族を中心とした政治から天皇中心の政治へと移り変わったとされている。
この改革により、
「日本」という国号及び「天皇」という称号が正式なものになった。」
967~1068年
「摂関政治(せっかんせいじ)とは、平安時代に藤原氏(藤原北家)の良房流一族が、天皇の外戚として摂政や関白あるいは内覧といった政治の実権」
を握った政治体系へ}
「2世紀末〜3世紀に大和地方と吉備などの瀬戸内、あるいは北九州、山陰、東海まで含む地域を超えた有力豪族らが大和盆地東南部、三輪山麓の纒向遺跡に政治連合を形成する。
8世紀の律令制確立の過程で「朝廷」としての体裁を整えていった。
旧来から一般的に大和朝廷(やまとちょうてい)と呼ばれてきたが、戦後、歴史学者の中で「大和」「朝廷」という語彙で時代を表すことは必ずしも適切ではないとの見解が1970年代以降に現れており、その歴史観を反映する用語として
「ヤマト王権」の語などが用いられはじめた。」
「呼称については、古墳時代の前半においては近年
「倭王権」
「ヤマト政権」
「倭政権」
などの用語も用いられている
(詳細は「名称について」の節を参照)」