こっぴどく振られた、という経験は誰しも一度はしたことがあるだろう。
例えば、告白してもいないのに、
「あんたなんか嫌いよ、ばーか」
と言われたりだとか、
三股されていたにもかかわらず、向こうから「さよなら」を
告げられたりだとか。
他にももっと想像を絶するような振られ方を経験したことが
ある人もいるだろう。
なぜ、こんな話をするのかというと、僕がまさしく今日、ひどい振られ方を
されたからだ。
今日という言い方をもっと詳らかにするならば、それはつい5分程前に起きた
ことである。
3年間付き合っていて、お互い結婚の約束まで交わした間柄だったというのに、
「あなたといてもちっともおもしろくない」という、僕の想像を超えた振られ方を
されてしまった。それならば、3年間付き合わなくてもわかったじゃないか、
と声をあげて糾弾したかったけれど、人が大勢いる喫茶店だったこともあり、
僕はかろうじてそれをとどまることが出来た。
「さよなら」と一言告げると、彼女は、すたすたと2人分の会計を済ませて
さっさと出て行ってしまった。
僕は、自分が注文したアイスコーヒーを飲み干し、目の前のぽっかりと空いた
空席をぼんやりと眺めた。
なにがいけなかったんだろう、とか、もっとこうしていれば、といった
具体的な後悔というものは一切感じなかった。
なぜなら、僕は、今しがた起きた事を紛れもない事実だと、自分に言い聞かせる
作業だけで手一杯だったからだ。
人は、あまりに突飛な出来事に直面すると、感情を停止させ、ただ目の前の
事を処理するだけになってしまうのかもしれないな、などとくだらない
ことばかり考えていた。
そんなことを考えていたものだから、目の前に若い女性が立っていることにも
しばらく気付かなかった。
「由里子」
僕は、てっきり彼女が自分の発言を撤回しに戻ってきてくれたものだと勘違いし、
彼女の名前を呼んでしまった。
今は彼女ではなく元彼女というべきかもしれないが。
「由里子?…すいません、相席いいですか?」
恐る恐る話しかけてくる、その相手の顔を見て、
初めてその女性が由里子ではなかったことに気がついた。
きれいなストレートの黒髪は肩にかかるくらい、大きくて黒目がちな瞳で僕の方を
じっと見ていた。
きれいだけれど可愛らしい、そんな印象だった。
僕は、いまさらながら、自分が勘違いしていたことに気付き、思わず赤面してしまう。
「あ、すいません。てっきり知り合いだと勘違いしまして」
「約束か何かされているんですか?でしたら私は別の席に…」
「いえいえ、大丈夫です。もう来ませんから」
はぁ、とどこか不思議がる様子で、彼女は、僕の目の前に座った。
確かに、まわりを見ると、どこも満席で、入り口付近には順番待ちをしている
のか列が出来ていた。
僕はもう用事は済んでいて、ここに特に長居する理由はなかったので、
席を立ってもよかったのだけれど、目の前に現れた女性に興味が湧き、
もう少しここにいてもいいかなという気持ちになっていた。
少し派手ではないかと思えるような制服をきたウエイトレスが注文を
取りに来ていたので、僕はハーブティーを、彼女はホットコーヒーを
一つずつ注文した。
彼女は着ていた黒いロングコートを脱ぎ、足元にあった籐の籠に入れ、
鞄から読みかけの文庫本を取り出すと、それをぺらぺらとめくり始めた。
本来ならば、こうした相席中は話しかけないのが礼儀なのかもしれないが、
付き合っていた女性に振られて半ば自棄になっていた僕は、知らず彼女に
声をかけていた。
「何を読んでいるんですか?」
「え?あぁ、これですか?」
といって彼女は読んでいた文庫本の背表紙を見せてくれたのだが、
聞いたこともない様な作家だったので、あいまいに「へぇ、すごいですね」
としか僕は反応出来なかった。
彼女もそういった反応には慣れているのか、にこりと笑うと、すぐに視線を
本へと移した。
本を読んでいる姿はとてもしっくりと、その場の雰囲気にはまっていて、
切り取って額に入れて飾ってもいいくらい、見る者を魅了する絵だった。
「どうかされましたか?」
僕がずっと見ていたせいだろう、視線に気付くと彼女は遠慮がちに
そう聞いてきた。
大きな瞳に、店の照明が反射し、きらきらと輝いている。
「あなたが、とてもきれいだから思わず見とれてしまいました」などという
気障な言い回しが僕に言える訳もなく、ただ曖昧に、「いえ、何もないです」
とお茶を濁すことしか出来なかった。
店内にはピアノジャズが心地よい音量で控えめにかかっていたのだが、
それが次の曲にさしかかった時、注文していた飲み物がようやく運ばれてきた。
彼女は、ブラックが苦手なのか、角砂糖を2つコーヒーに入れ、スプーンで
くるくるとかき混ぜると、一口だけ口にした。
もしかしたら猫舌なのかもしれないな、などと考えていた僕は、
「もしかして猫舌なんですか?」と彼女に聞かれ、心臓が口から飛び出しや
しないかと思うほど驚いた。
話を聞くと、それはエスパーでも何でもなくて、僕がいっこうに運ばれてきた
ハーブティーを口にせず、スプーンでかちゃかちゃと遊んでいたから
そう思っただけのことだった。
結論から言うと、僕は猫舌なので彼女の分析は当たっていたことになるのだが。
初対面の人と会話する時、話が大いに盛り上がり意気投合する場合と、
この人とは話が合わないなと感じ、無難な会話で終わる場合とが
あるけれど、僕たちの場合はまさしく後者だった。
それ以降、特に会話する理由や話題がなかった事と、彼女が再び文庫本に
目を落としたせいもあって、僕たちの間を沈黙が長い間支配した。
沈黙による独裁政権は一体どこまで続くのかと思われたが、それを
打破する英雄は意外なところから現れた。
僕が今日これからの予定について、ぼんやりと考えていると、
ポケットにしまってあった携帯電話がうなり声をあげたのだ。
といってもそれは僕にしか分からない、バイブレーションだったのだけれど。
どうやらメールの着信があったことを知らせてくれていたようで、
誰からだろう、もしかして由里子からだろうか、と考えながら
僕は携帯の画面を開いた。
『今からお前を迎えに行くからどこにいるか教えろ』
という理由や用件、愛想も何もない文面が目に飛び込んできた。
見ると、旧友の斉藤からで、ぼくはため息をつきたくなった。
斉藤 孝とは中学校からの付き合いで、現在も連絡を取り合っている
数少ない友達の一人である。彼ほど能天気で、楽天家な人間を僕は
今まで見たことがない。
「人間、最後はみんな死ぬんだぜ?だったら楽しく生きなきゃ損だろ」
という彼の口癖はまさに、彼の行動指針を的確に表していて、
楽しく楽に最後まで、というのがどうやら彼の目標であるらしかった。
なので、24歳になっても定職にも就かず、ふらふらと遊びまわっている。
生活資金などはどうしているのか、と以前聞いたことがあったが、
「そんなもん、今の世の中なんとでもなるんだよ。要は頭だよ」
と言われ、妙に腹が立ったことを覚えている。
彼がお金に困り泣き付いてきても、決して貸したりはしないぞ、と
その時、固い決心が僕の心の中に生まれたことは言うまでもない。
僕は、今いる場所を彼に伝えると、すでに冷めてしまっているハーブティーを
一気に飲み干し、伝票を手に取った。
彼女は相変わらず読書に熱中しているようだったので、声を掛けると悪いだろう
と思い、何も言わずに席を立つことにした。
帰り際、彼女の隣を通る時、ふっと甘い香りが鼻腔を刺激した。
甘いヴァニラエッセンスの香りだ。
その瞬間僕は、彼女が由里子と同じ香水をつけていたことに気付き、
なるほど、だから勘違いしたのか、と一人納得しながら、店を後にした。