「あ…れ…?」
俺は激しく動揺していた。
一瞬、何が起こったのか分からなかった。
足元に溜まっていく水滴が、自分の瞳から零れ落ちているのだと
気付き、なぜ自分が泣いているのか分からず、パニックになりそうになる。
悲しくて泣く、嬉しくて泣く、そういった感情が
あった上での体の反応というよりは、俺の心の根底にある琴線に触れ、
体を通じて発露した、といった方がいいかもしれない。
『私の声が聞こえるの?』
それが人影から自分に発せられているものだと瞬時に気付くには、俺は
少々動揺しすぎていた。
数秒、間を置いて、俺への話しかけられた言葉だと理解する。
「え?…聞こえるよ」
自分が涙したことへの動揺から少し落ち着きを取り戻し、
なんとか冷静を保つべく、努めてゆっくりと答える。
『すごい。今まで何十人と話しかけてきたけど、私の声を
聞き取れたのはあなたが初めてよ』
その声にはただ純粋に、驚きの色が滲み出ていたが、どちらかというと
悲哀の色よりは歓喜の度合いが強い。
「え?どういうことだ?俺にはクリアに聞こえるが…。
そもそも君は誰なんだ?」
『ごめんね。自己紹介がまだだったわね。
私は、朝霧 薫。歳は…そうね、死んでしまった時の
まま十四歳になるのかしら』
それまで、ただの黒い塊と化していた影は、急にふわりと上空へ
浮かぶと、少女の形を成し、俺の目の前にちょこんと降り立った。
背丈は俺よりずっと低く、座った俺と、目線の位置は大して変わらない。
「ちょっと待った。死んだ時って?…まさか、本当に幽霊なのか」
正直言って俺はかなり真剣に聞いたつもりだった。
まさか、この世に幽霊なんて存在しているとは思わないし、仮に
そうであったとしても、誰が自分の身に起こるなどと考えるだろうか。
対岸の火事、とはよく言ったもので、誰しもそういった不思議な現象は、自分には
関係ないものとして信じ込んでいる。もちろん、俺もその一人だ。
だから、問いただすよかのように真面目に聞いたのだが、彼女にとっては、(幽霊と
呼んでしまうのはあまりに可哀相なので、一人の生身の人間として扱うことに
する。俺って紳士だな)それがツボだったらしく、ぷっと吹き出してしまった。
『何それ、冗談のつもりなの?』
「冗談なもんか。俺は真剣に驚いてるんだぜ?
まさか、生きているうちに幽霊に遭遇するなんてよ…」
『…あなた、もしかして自分が特異な力を持ってることに気付いていないの?』
少女にしては、当然の質問だったのだろうが、俺にとっては耳を疑いたくなる
ような発言だった。
「ちょ、ちょっと待った。特異な能力?俺が?」
『うん。あなたが。だって私の声も聞こえてるみたいだし』
またもや、パニックになりそうになった。
…落ち着け。本日二回目のパニックはさすがに恥ずかしいし、冷静沈着キャラな
俺の持ち味が、てんぱりキャラへと変貌してしまう。
それだけは絶対に防がないと。
などと俺が一人であたふたしていると、少女はいつの間にか、俺の
目の前で正座してじっと見つめている。
切れ長だけど、大きいその瞳でじっと見つめられると、幽霊であることを
忘れ、素直に照れてしまうのが情けない。
「冷静になろうじゃないか。まずは、一点一点確認していこう」
『私は落ち着いてるわよ。落ち着きないのはお兄さんじゃない』
少女の冷静なツッコミは華麗にスルーし、俺は続けた。
「まず、君は幽霊なんだよね?」
『君じゃなくて、薫よ。そうね、一応幽霊ってことになるのかしら。
私としては、幽霊になっても生きてる時とあんまり変わらないから
分かりにくいけど』
「OK。君…じゃなくて薫ちゃん、の姿は誰にでも見えるのかい?」
その質問に、薫ちゃんは腕を組み、少し考えるようなポーズを取った。
『多分、姿は、誰でもってわけじゃないけど、ある程度の人には見えるみたい。
見えない人もたくさんいたけど、それはその人に霊感がなかったからとか
そういうんじゃない気がする…。だって、それだとこの病院にいる人ってかなり
霊感が強い人ばかりってことになるじゃない?私のこと見えてた人は少なくとも
十人以上はいたわけだし…』
確かに、この指摘は正しいように思う。
普通なら霊感のあるなしが、霊現象を体感できる一種の判定基準になるのだが、
どうやら、こと今回に限っては、それとは違う何かしらの要素が絡み合っていると
みたほうがいいのかもしれない。
その要素というのが何かと問われれば、
今はまだ答えは持ち合わせていないのだが。
「じゃあ、一番最初の問題に戻るけど…薫ちゃんの声が聞こえたのは俺が
初めてなんだね?ということは、見えてた人でも声だけは聞こえなかったって
ことだよね?」
『そうみたいね。
お兄さんが私の声を拾ってくれた初めての人なのは間違いないわ。
他の人は、話しかけても全然気付いてくれないし、すぐに逃げ出してしまうもの』
そこで初めて少女は、悲しそうな表情を見せた。
よくよく考えると、まだ十四歳の子供なのだ。ずっと一人ぼっちだったことを思うと
やるせない気持ちになる。
「でも何で俺には聞こえたんだろう…自慢じゃないけど、俺には霊感ってのは一切
ないのに」
ここが俺にとって最も知りたい点であった。
連日続いている、不可思議な出来事の正体も、今日のこの事件につながっている
気がするのだ。
『感受性…じゃないかしら?』
「え?」
『私の姿が見えてる人って感受性が豊かな人が多かったような気がするの。
こっそり病院を見て回ったんだけど、子供だったり芸術肌の人だったり』
「じゃあ、声まで聞こえた俺はものすごく感受性が強い人ってこと?」
『そう…なるわね』
感受性…一概にそうじゃないと否定しきれない説得力がこの言葉にあった。
だが、しっくりとこないのも事実だ。
またもや、自慢じゃないが、俺は音楽や美術などの方面はからっきしダメで、
芸術的感性などとは縁遠いところにいる。
方向性としては決して間違ってはいないような気がするが…靄がかかった
ように明確な解答が出てこない。
俺は、今までに起きた出来事をもう一度整理することにした。
未来から来たという早蕨との戦闘中に起きたこと。
風太が歩けるようになるきっかけとなったあの部屋でのこと。
そして、この少女との遭遇。
――!!
ばちっという音が聞こえる気がしたくらい、俺の脳内に一つの
仮説が電気のように駆け巡った。
――俺は思い返していた。
早蕨との戦闘中に起きたのは、奴の行動パターンが読めたことだった。
まるで頭の中に考えが流れ込んでくるかのように、相手の次の動作が
手に取るように分かったのだ。
どうしてかはさっぱり分からないが、とにかく相手の思考をトレースできる
くらいはっきりと浮かび上がってきていた。
次に、風太との接触した際にも頭に明瞭な考えが流れ込んできた。
それは風太の昔の記憶のようなものだった気がするが、近づいて、
触れた瞬間、強烈なイメージが飛び込んできたのだった。
誰よりも、風太自身が歩きたいと望んでいたのだから、その想いは
かなり強かったのではないだろうか。
そして、今回の出来事。
幽霊とは強い思念が、形となりこの世に現れたものだったはずだ。
とすれば、彼女の声が聞こえてきたのもうなずける。
なぜなら、彼女の存在自体が思念体なわけで、この世に未練を残すくらい
のものであるならば、それが聞こえないわけがない。
最初に彼女に出会ったときに、俺が涙した理由も、これに準ずることであろう。
そう、俺には思考や記憶を読み取れる能力があるのではないか、それが
俺が導き出した一つの仮説だった。
自分でも驚くべき推理力に感心したほどだが、何のことはない、
自分自身が何度も体験していたことなのだから、その答えは
最初から俺自身の中にあったということだろう。それを俺は、あるきっかけで
発見したに過ぎない。
『ねぇ、どうしたの?』
俺が深刻な面持ちでずっと考え込んでいたので、さすがに彼女も
心配になったようだ。
「いや、なんでもない。ところでさ、ちょっと右手を俺の手に置いてくれないか」
『え?』
明らかに戸惑っている彼女に俺は説明をせず、ただ促した。
仮説を証明するための方法だった。
彼女は、そんな俺の気持ちを察してくれたのか、こくりと頷くと、
そっと右手を俺の左手の上に乗せた。
―――――
―――――
―――――
―――――
早送りしているビデオを見ているような、
と言ったら多少語弊があるかもしれないが、まさにそんな感じだった。
高速で見る映像のように彼女の気持ちや情報が再生された。
彼女に触れた左手を介して、彼女の深い思念が、
どっと俺の脳内に流れ込んできたのだろう。
それは、たとえるなら情報の洪水のようなもので、
うっかり気持ちを踏み外してしまうと、気を失ってしまいそうになるくらいだった。
『大丈夫…?』
その声で俺は正気を取り戻した。あまり一度に情報を得ようとすると
意識が飛んでしまうのかもしれない。これからは気をつけないと。
この時点で無意識ながら、
俺は自分の仮説が正しいものであると認識していたし、
それを自覚的に使用することも視野に入れていたようだ。
「薫ちゃんってA型で十月十日生まれで、双生児でお姉ちゃんの方だったん
じゃない?」
え、どうして?!という顔で薫ちゃんがこちらをはっと振り向く。
自分が教えていない情報を相手に知られているのは、単純に薄気味悪い
ものだが、このときの薫ちゃんの表情を見ていると、どちらかというと
手品の種を知りたいと願う子供のような表情をしていた。
その純粋さに、俺は忘れかけていた気持ちをふと思い出す。
「どうやら、これが薫ちゃんの言う『特異な力』みたいだな。
…薫ちゃんも助けられるかもしれないよ」
その言葉をどれほど待ち焦がれていたか、と聞こえてきそうな程、
彼女の顔がパーッと華やいで、生き返ったような明るさを取り戻す。
そう言いながら、俺の頭ではこれから先、
牛若丸達の捜索にこの力をどう活かすか、そんなことばかりが浮かんでいた。