それから数日間は、何事もなく平穏な日々が続いた。
俺の体は、既に90%くらい外傷なども完治し、リハビリを受ける必要などない
くらいに回復していたのだが、母親やしずかの監視の目が厳しかった
ので、仕方なく病室のベッドの上で日々悶々と過ごしていた。
自分で蒔いた種とはいえ、早くさえちゃんやリョーマ、牛若丸の捜索に
取り掛かりたかった俺としては、かなり出鼻をくじかれた形になっている。
何事も体が資本で治療が最優先、とは頭では分かっていても、
心ではそれを疑問視していたことは隠し様のない事実だった。
早く行きたい、それを察してかそうでないかは分からないが、病院の
中はとてもゆったりとした時間が流れていて、ややもすると、
自分がいま置かれている現状を忘れそうになるくらい平和である。
そんな平和な病院生活がしばらく続くかと思われたある日のこと、
俺の耳におもしろい情報が飛び込んできた。
情報のネタ元になったのは、日頃俺の世話をしてくれている看護士
さんだった。
「ねぇ、退屈でしょ?おもしろい話してあげよっか」
「え?いいですよ。面白いことは今求めてませんから」
この看護士さん、浦原 れい子さんは、とても世話焼きな面があると見えて、
何かにつけて俺に対して話しかけてくるのだ。
そうやって患者とコミュニケーションを取ることは何よりも大事だと信じきっている
節がある。
明るくて物怖じしない、あけすけな性格なので、患者同士の間でも結構人気
があるのだが、俺としては、どちらかといえば、そっとしておいて欲しい方なので、
彼女の性格の良さは分かっているのだけれど、少し煩わしさも感じていたりした。
「いいから聞きなさいよ。あんたも病院内の流行に乗り遅れたくないでしょ?」
「そんな限定的流行に乗りたくないですけどね」
そう言い終えた瞬間、持っていたボールペンで頭を叩かれた。
これって暴力なんじゃないでしょうか。
「はいはい、分かりましたよ…。で、何なんですか、面白い話って」
すると、急に、彼女は、待ってましたとばかりに胸を張り、らんらんとした
瞳で語りだした。
「…どうやらこの病院に幽霊が出るらしいのよ」
「すいません、帰ってもらっていいですか」
間髪入れずにそう切り替えした。
小学生や中学生ならそういった話で盛り上がるのもうなずけるが、
大の大人が真剣な顔でする話なのか、と浦原れい子の精神年齢を
疑いたくなってしまう。
「ちょっ、ちょっと待ちなさいって!これは噂とかそういったレベルの話じゃ
ないんだからね。実際に遭遇した人が何人もいるし、わたしの同僚も
見たって言ってるのよ。」
最初の目撃者が出たのは今から約一ヶ月ほど前、ある患者が
夜中にトイレに行くため廊下を歩いていたところ、前方に何かぼんやりとした
人影を見つけたらしい。夜中にトイレに行く人は少ないとはいえ、タイミングが
重なることもあるだろうと特に気にすることなく、その患者はトイレへと入っていった
らしい。用を足し、帰途につく廊下で、まだあの人影がいることに気付いた。
さすがに不審に思い、話しかけようと近づいたところ、目の前でふっと突然
消えたらしいのである。
その後、間隔をあけることなく、次々と同様の目撃者が現れ、この病院内で、
ちょっとした騒動になっている、とのことであった。
「見間違いとかじゃないんですか?ほら、夜中だし、あんまり確認できない
じゃないですか」
「ばかね、そんな単純な問題じゃないのよ。何せ、世代や男女を問わず
何十人と患者さんが目撃してるのよ。目撃証言なんかも結構共通してる
みたいだし、全員が見間違う可能性のほうが低いわよ」
「でも、そう何人も霊感能力があるとは思えないんですけどね」
「う…。まぁそれを言われるとあれだけど…。でも、とにかく
霊が出るのは間違いないのよ。私も遭遇したらどうしよー」
どうしよう、とそんなウキウキ気分で言われても、全然怖がってる
ようには見えないんですけど、とはさすがに口に出して言えなかった。
しずかや母親が名残惜しそうに病室を出て行ったのが、その日の
夜の七時過ぎだった。
やれやれ、やっと自分の時間が出来たと胸を撫で下ろし、
俺は、いつものようにテレビのチャンネルを入れると、読みかけの
『ニュートン列伝』のページをめくり、すぐに
本の世界へと没頭し始めた。
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―――――――
―――――――
―――――――
本がベッドからすべり落ちる音で目が覚めた。
時計を見ると時刻は23時を回っている。
本を読んでいる間に、知らず知らず、寝入っていたらしい。
疲れがたまってるのかな、と思ったが、日がな一日寝て過ごしている
俺に疲れがたまるわけがないかと、苦笑しながら思い直し、
背伸びをしながらこみあげてきたあくびをかみ殺す。
顔でも洗ってから寝ようと、病室から少し離れた洗面所へと
俺は向かうことにした。
夜の病院をこうしてうろうろするのは、初めてではないとはいえ、
かなり恐ろしいものである。
非常口の明かりが余計な不気味さを演出しているのは確実だな、などと
一人そうやって気を紛らわせながら、早足で目的の場所へと急いだ。
その途中、廊下の突き当たりに不自然な人影があることに気付けたのは、
やはり昼間の浦原さんの話があったからだろう。
出来れば気付きたくなかったのだが、気付いてしまった以上、
自分の中に芽生えた好奇心がむくむくと成長し、恐怖心に勝つまで
そう時間はかからなかった。
やめとけよ、という自分の中の警報ベルがけたたましく鳴り響いていたが、
この噂話をどこか信用していない自分がいたので、その真偽の確認も
含め、俺は、静かにその人影へと近づいていった。
徐々に近づいていく中で、思いの外その影が小さいことに気付いた。
おそらくだが、小学校高学年くらいの身の丈ではないだろうか。
自分よりも小さいものに対しては自然と警戒心が揺らぐのか、
俺は少し大胆になり、「なにしてるの?」と影に向かって話しかけた。
不自然なほどの静寂があたりを包み込んでいて、
このまま闇へと飲み込まれてしまうんじゃないだろうかと思い始めた頃、
何か声のような、音のようなものが影の方向から聞こえてきた。
「え?」
俺は、確認の意味合いを込めて、さきほどよりも大きな声で、彼女に近づき
ながら聞いた。
この時の俺は、恥ずかしながら、彼女を幽霊だとは認識していなかった。
返事が返ってきたということで、なんだ人間じゃないか、という思いと
自分には霊感がないという思い込みがあったからだ。
先日自分に起こった奇妙で特殊な事件によって、自分には
一般人にはない、何か特別な能力が芽生え始めているということは微塵も
脳裏には浮かばず、むしろ心のどこかでそれを否定していたので、
安易な認識も仕方がなかったのかもしれない。
「助けて…」
ぼそりと吐き出すように、その人影から漏れた一言は、
なぜか俺の心をひどく締め付けた。
その声からは苦しみや悲しみ、嘆きなどの負の感情がありありと
滲み出ていて、だからこそ、その訴えかけは心の奥底まで届いた。
恐怖心はとうに吹き飛んでおり、気付けば俺は人影に寄り添うように、
腰を下ろしていた。
ポタリ。
暗い廊下に水滴の落ちる音が響く。
俺の目からはなぜか涙が止まらなかった。