宇徳敬子さん…織田哲郎さんが「「おどるポンポコリン」がヒットして「想い出の九十九里浜」もヒットしたという状況の中で、自分が救済されるためだけに音楽を作るんじゃなくて、かつて自分が音楽に救われてきたように、自分が音楽を生み出すことで人が救われるケースもありえるんだとしたら、それはやる意義があるんじゃないかと。」言ってくれていること、とてもうれしいですねV(^_^)V



織田哲郎:結果的にね。発端は「おどるポンポコリン」(90年)なんだけど、あの頃はまだ休養中なんです。。。『ちびまる子ちゃん』の話を持ってきた。俺にとってそれは単に、その頃小学生だった娘が喜ぶかもしれないというだけの理由で、やってみようと思ったんですよ。それがあんなふうに、意味のわからないくらいの大ヒットになっちゃった。


インタビュアー…すごかったですよ。予測した人は当時あんまりいなかったんじゃないですか。


織田哲郎:いないですよ。だって『サザエさん』のテーマが大ヒットしたという話は聞いたことないでしょ(笑)。だから訳がわからない事態だったんですよ、あれは。みんなにとって。で、その頃自分の部屋で多重録音できる機材を買って遊んでたんだけど、そこで“グループサウンズごっこ”のつもりで作ったのがMiーkeの「想い出の九十九里浜」(91年)だった。そんなものまで売れちゃったりして。自分が引っ込もうと思ってる時にそういうことが起きたというのは、“やっぱり音楽やれって言われてるのかな”と思うじゃないですか。
──ですよね。天からの声みたいな。

織田:自分でもそういうものを感じたから。で、オレが20代の頃には、“自分がそれを生み出してないと生きてられないから生み出してる”という気持ちだけで音楽をやってたんですよ。音楽を作る原動力はそれしかなかった。だから、“それをやらなくてもいいかも”と思った時にはすぐ“やめちゃおう”と思うんだけど。それが89年、31の時で、もうオレにとって音楽という救済手段は必要じゃなくなった気がしたから。

インタビュアー…音楽は救済だったんですね。20代までの織田哲郎にとって。

織田哲郎:そう。すべて自分のため。“それが必要なくなったらもう音楽をやらなくていいんじゃないか”という理屈だった。だけどね、自分が10代の頃とかに音楽によって救われてきたわけで、「おどるポンポコリン」がヒットして、「想い出の九十九里浜」もヒットしたという状況の中で、自分が救済されるためだけに音楽を作るんじゃなくて、かつて自分が音楽に救われてきたように、自分が音楽を生み出すことで人が救われるケースもありえるんだとしたら、それはやる意義があるんじゃないか?と。

インタビュアー…ですよね。だと思います。


織田哲郎:ヒットしたという現象は、オレにそれをやれと言われてるんじゃないか?と思ったわけです。だって自分が望んだことでもない、訳のわからない現象だから。ただ“人のために作る”というとまたニュアンスが変わっちゃうんだけど、あくまでも音楽は自分が“これがいい”と思うものを作らないと、人もいいと思ってくれないから。価値観をほかの人において作ることは無理なんだけど、どこかでそういう気持ちになったんだよね。そこで初めてオレはプロとして音楽を作るようになったのかもしれない。“よし、じゃあもう一回音楽をやろう”と。その宣言として出したのが「いつまでも変わらぬ愛を」だったわけです。

以上です。


宇徳敬子さん…織田哲郎さんが「「おどるポンポコリン」がヒットして「想い出の九十九里浜」もヒットしたという状況の中で、自分が救済されるためだけに音楽を作るんじゃなくて、かつて自分が音楽に救われてきたように、自分が音楽を生み出すことで人が救われるケースもありえるんだとしたら、それはやる意義があるんじゃないかと。」言ってくれていること、とてもうれしいですねV(^_^)V

宇徳敬子さん~MiーKe25周年ありがとうございます♪おめでとうございます!