映画と小説のこと。 | 京都を遊びつくすブログ

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6月11日

山地悠紀夫がもういなくなったから、私はこの世で寄り添える人がいない。

山地悠紀夫と偶然どっかで出会っていたかった。

当たり前だけど他人は変えられない。私も変わらない。ただ、変わらないからこそ、数少ない共鳴できる人と出会えれば、一緒に生きていけたんじゃないかなと思う。

あの日、私は映画『ヒミズ』をボロクソに罵ってたけど、この年になると、汚くて泥臭くて底辺を這いずり回っても、命があればいいじゃないと思うようになってきて、あのラストシーン、よかったんじゃないかなって最近は思うようになっている。主人公が最後に死ぬシーンを書くのなんて簡単だから。

共鳴しあい、愛しあえる人と出会える確率ってどれくらいなんだろう。

 

6月16日

思春期に出会った映画や小説を、何か引き金がある度に思い出し、その作品を咀嚼する。死ぬ前にベッドの上でもう一度それらを咀嚼して、「それでも醍醐味はわからなかったな」と思って一生を終えるのかなと思った。

映画や小説って音叉だと思う。どういう音に、自分の感性という琴線が共鳴するか。 ワイの琴線は今のところ、江國香織とか岩井俊二とかにぐわんぐわん共鳴する。他にもどんな音叉で共鳴するか、開拓していきたい。

琴線がたくさん揺れている人生にしたい。

書店にて、重松清の『疾走』の背表紙を4度見し、その本棚から出して立ち読みし、本棚に戻し、結局彼の別の作品『みぞれ』を購入した。こんなに素直になれない私は今夜、清水翔太の「素直」を聴く。

 

6月17日

激烈に琴線を振るわせたい。

今日百万遍の古書店の店主と会う約束をした。

彼は私の、携帯電話の無い古き良き時代ごっこに付き合ってくれた。

約束した場所で読書をしながら人を待つその時間は、とても芳醇である。

「重松清の『疾走』っぽい小説を買いに来ました」と言うと、「だったら『疾走』を買えばいいだろ」と返される。そんなに素直な私なら、もっと人生はイージーだと思う。

その古書店の店主は、花村萬月を勧めてくれた。 『疾走』は、死ぬ前に読むことにする。それを読まない代わりに、私はどんどん、共鳴する本を開拓していく。

店主から花村萬月の話をたくさん聞いた。 私のこの京都生活4年間、非常にべったりと、花村萬月を読む土台を、私の心に塗りたくってきたことを確信した。 というよりも、私のこの4年間が、花村萬月の作品に寄り添えるように無意識に仕向けて行っていたのかもしれない。

古書店のお兄さんと年が近ければお兄さんとの関係も楽しかっただろうと思うけど、私はまだ子どもすぎた。

 

6月18日

重松清の『みぞれ』を読んだ。

私がもう少し大人で、言葉をもっと知っていたら、古書店のお兄さんとの言葉遊びも、お酒のつまみくらいの旨味はあったかもしれない。

古書店のお兄さんはいつも、ベランダで缶ビールを飲みながら煙草をふかして、物思いに耽っている。 私も気難しい方だと言われるけれど、お兄さん程では無い。 私はお兄さんを観察しているようで、実は観察されているのかもしれない。もしくは、ただの通りすがりのおこちゃまな客なだけか。

私はいつもその古書店に行くと、お兄さんに小馬鹿にされ、適当にあしらわれる。 可愛がられることさえ、無い。 お兄さんがぽつりぽつりと語り掛けてくれるくらいには、私も大人になりたいと思う。 今度、美味しいお酒を持っていこう。

古書店のお兄さん観察日記、おわり。

 

6月19日

手越祐也の『疾走』に触れたいと思ったその日から、小説を貪り読む日々が続く。あれも違う、これも違う。恋愛じゃない。人が死ぬんじゃない。そんな物語は求めてない。もっと違う物語・・・。

たかがアイドルに何を私は求めているのだろう。 そして一周回ってまた重松清を読む。 社会の果ての、泥臭くたくましく生きる人が、私は好きなのだ。

染谷将太の作品に触れたいと思えたら、「たかがアイドル」なんて思わなくてもよかったのに。

古書店のお兄さんは言っていた。「お前の好きな映画監督とかなぁ、きったねーモンを綺麗に撮って。でも汚いモンは汚いねん」と。それはそうなんだけど。

泥臭い人生を演じる人物がキラキラしたアイドルで、その役者と役柄の幅が旨味なんですよきっと。

 

6月20日

岩井俊二の映画は、私の気持ちを全部吸収してくれる。だけど、SABUの映画はそうじゃない。彼の映画に私の気持ちは収まりきらない。じわじわと滲み出ていく。この収まりきらない気持ちを昇華するために、私は開拓を続ける。

作品という器に収まりきらずに流れ続ける私の気持ちは、私を枯渇させていく。

私にとってアイドルは、イデアじゃないの。影を映した映画なんて、私を満たしてはくれないの。

カラッカラに乾いて本当にどうしようもなくなったときは、古書店に行こう。お兄さんは何か、物語を語ってくれるだろうか。

中学以来、ひっさしぶりに『疾走』を観た。 あの頃は伊藤歩ちゃんが大好きで、だから、エリ役の子の気持ちが全然わからなかった。というよりも、鼻につく嫌いな女だと思っていた。 けど、久しぶりに見たら、その子は、昔の私そっくりだった。

たぶん、観るの10年ぶりだと思う。

10年前、あの映画を観たあと自分の気持ちが滲み出て行ったのは、その作品がつまらなくて器が小さかったのではなく、私の方が、ペラッペラで器の小さい人間だったからだったんだ。

10年経った今、SABUの映画は、私の心をすっぽりと包んでくれる。

「満ち満ちている」という言葉は、こういうときに使うのか。

庵野秀明と岩井俊二と一緒に映画を作った藤谷文子が、レオスカラックスの映画にも出ていたという、なんていうか、世界狭すぎというか、嫉妬心炸裂というか、私より10コしか年離れてない女性のこの煌びやかな遍歴というか、ずるい。

ジブリ作品で、「式日」だけが好き。あとは嫌い。 菊地成孔を知らなかったら、私はこのお国で「ジブリキライ」って言えなかったと思う。

あたしたぶんずっと、彼らの虚構(物語)の中で、現実の時間を過ごしてたんだと思う。

アイドルの語源は、ラテン語の「偶像」なんだそうだ。 私はその偶像により、脚本家の虚構世界から引き出された。 でも、引き出した存在は所詮偶像なのだ。 私はいつも嘘の世界に生きている。

偶像(影)には必ずイデア(真)があると思ってる。 だから私は、アイドルである彼のファンにはならない。

アイドルとラカンの親和性。

みんな嘘。

 

6月27日

重松清『エイジ』読了。エイジは帰ってきたのに、シュウジは帰ってこれなかった。『疾走』を読まずに違う作品ばかり読むから、余計にシュウジの輪郭が鋭くなっていく。

エイジが家庭で愛されている描写を読めば読むほど、シュウジを抱きしめたくなる。そんな風にして私だって、条件付きの愛しか示せない。
ファクトリーのパーティーで、文学青年に会った。彼は、中原中也やショパンが好きだといった。そんな彼に「女々しい奴らばっかり好きなんだな」と言い返してしまうくらいに、私はガサツな女だと思う。頭では「繊細なんだな」とわかっていても。
彼は、『疾走』のストーリーをよく覚えていた。彼は「あの小説の描写を、映画で表現できるわけがない」とも、「終盤で、あ、シュウジは死ぬんだなってわかった」とも言っていた。
重松清の筆は、なんて残酷なんだろう。

 

このブログを書いた人

山本和華子

 

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