ちょっと昔語りを。

私の幼稚園から学生時代までの話です。


私が幼稚園当時住んでいた家のお隣さん。

そこには週に1度

集まってくる人たちがいました。

1度来てみない?と誘われたようで

なんとなく行くようになったようです。

ここの経緯は覚えていません。


お隣は、その会で

テューターと呼ばれていた先生の実家で

そのために毎週

今住んでいるところから

教えに通って来ていました。


集まってやっていたのは

英語の曲をかけて

一緒に歌ったり踊ったり。

いわゆるフォークダンスのような感じで

曲も、そんな感じのもの。

日本で言うところの童謡的な感じでしょうか。


その後、英語と日本語の書かれた

絵本のようなものを読み

その音声と

音楽が録音されたテープを流しながら

人体表現と呼ばれる劇をするのです。

そのおかげか

英語のリスニングは、よかったんです。

耳が慣れているから。

でも文法とか筆記は全然でしたね。


人体表現と一般演劇の大きな違いは

衣装をつけないこと

大道具、小道具などの備品を使わないこと。

登場人物以外のものも人が表現すること。

たとえば木が生えていたら木になる。

風に、波にと自然現象も自分の体で表現する。

だから、その物語の参加者は

全員、常に出ていて

キャストAをやっていても

出番のない時は風になって

舞台上を動き回っていたりするのです。


最初は絵本で見かけるような題材の作品を

やっていましたが

途中でテューターの所属する会が変わり

宮澤賢治の作品をやるようになりました。

月夜のでんしんばしら、という作品の時

中に出てくる「がいし」というものが

なんだかわからず電力会社に電話して

電話に出た方を

困らせたこともありましたっけ。

この前、話題だった

やまなし、の時は

このパーティーとして

やまなしはなんだと思って表現するか、を

話し合いましたね。


そんなことを続けていた私ですが

高校入学時に一緒にやっていた友人に

演劇部に入ろうと誘われます。

入部したのはいいのですが

私はいくらやっても腹式呼吸が出来ずで。

これが出来ないと舞台での声が通りません。


たまたま私たちの学年は

その友人と私の2人だけ。

友人が出役の方の衣装やメイクなど

私が裏方の照明や音響、大道具などを

先輩方から引き継ぐことにしました。

私は、あまり顔を出さない部員でしたが

春の新入生歓迎公演と

秋の文化祭の前は

ちゃんと行きましたよ。

きっと私は元々

裏方に向いていたのだと思います。

自分たちが部活を回すようになってから

照明のプランを考えたり

音響を探したりするノは楽しかったですから。

背景に夕暮れ空を見せるには

どういうカラーフィルターを照明にかけて

どの程度の明るさにするのか。

アッパーとホリゾントのバランスは、とかね。


その高校時代に並行して

人体表現の会の地元での発表会の時

(全国的なものでしたので

地元での単独でのものと

県庁所在地での何パーティーか集まるものの

発表会が行われていました)

今の感覚で言うと自主公演のような形で

何回か作品をやりました。

最後は友人が書いた

オリジナル作品だったり。

(ちなみに、その時の私の役は

大地の精♂︎と部下♂︎の2役でした)


そうして高校卒業の3ヶ月前に

地元のパーティーが

なくなるまで通っていました。


そうしたこともあってか

どちらかと言えば

ライブやコンサートよりも

舞台に興味を持つ素地が

出来上がっていったのだと思います。


だからニッキとかっちゃんの

退所前に発売された

少年隊35th Anniversary BESTの

限定盤発売の情報が入った時

楽曲CDとコンサートDVDのセットと

舞台PLAY ZONE DVDセット。

舞台の方だけ買おうと

申し込み直前まで思っていましたから。

結果、両方買いましたけどね。


サラナイでニッキが演者として

5年ぶりに舞台に立つ。

そして地元近くにくると聞いた時

どうしても行きたいと思いました。

これがコンサートだったら

思いきれなかったかも?と思うのです。

仕事休んでまで行こうと思えたのか。


そんなこんなで

私の生ニッキデビューは

サラナイの柳川公演2日目。


開催時期の関係で

休みが取れるか、もあるので

これからも全部に

行けるわけではありませんが

行ける範囲で観劇は続けたいと思います。


なんか話してみたくなったのですが

おもしろくもない昔語りの長話に

お付き合いくださり

ありがとうございました。