人はどこを目指すべきなのか | うじのブログ

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前に機械さんに養ってもらう世界になったらヒトというものはどういう扱いを受けるんだろうか、みたいな話を書いた(趣旨がほぼ一行で書けてしまったw)けれど、人類はどうして欲しいと思うんだろうかというのが今回の話。

私は人類の最先端に居て、働かずに何とか生かしてもらうという贅沢な生活をしているわけですが、やっぱりもうちょっと何か生産的なことをしたいという欲求が微妙に存在してます。まぁ、気分障害やらその他の雑事優先やら体が動かないとか色々あって出来てないわけですが。

もとい。

人類はエネルギー問題を解決して、働かざるともなんとか食える状況になったとしたら、何を目指すのか。

火星探査の探査車の名前にもなっている「好奇心」で色々解明を進めていくことに没頭するかと思われていたけれど、どうやら機械知性の方がハードウェア的制約の少なさから軽々と追い抜いていく未来がぼちぼち見えてきた。

芸術は人の感性に対する物だから機械には分かるまい、というのも怪しくなっている。人の嗜好に合わせたものを機械は提供出来るようになるだろう。

子孫繁栄を一途に目指すというのも、これは資源の制約があるから無制限にはあり得そうに無い。そもそもそんなの意識して目指すこと無く、機械共の計画に沿った繁殖活動に合わせた格好で人が最大限宇宙に発展していくのを目指すだろうと思うが、本質的な人類の「したいこと」でも無さそうだ。

宗教なのか。これはかなり微妙。信教の自由は制約されないだろうが、他者を排斥する傾向は宗教から削り取られていく予感がある。結局は教育によってもたらされる物が宗教の基盤であるだろうし、多様性の維持と排斥主義とは相容れないから、一神教であっても他の宗教を否定する考え方は薄くなっていくだろう。

なんか話がそれたが、宗教が人類の目的にならないと思えるのは、多様性を認めない宗教こそがそれこそ必死に活動してて、そうでない宗教が割合鷹揚であるという感覚から、過激主義を削られた宗教が人類の目的にはならないだろうという考え。

快楽はどうか。以前は例えば快楽中枢の解明が進めば快楽のために戦う兵士がどっさり出来て脅威になるのでは無いかと思っていたが、それより無人機の性能向上が見えて来て、そんなの必要無くなってきた感がある。機械の方が対G性能とか強く作れるし、反応速度も速いから終端誘導に人を使うという非人道的作戦・兵器は今後あり得ないだろう。人を殺すのに機械の判断で良いのかという話が最後に残るが、非錯誤率が桁違いに向上すれば批判は小さくなるだろう。

また脱線した。究極の快楽を求める層は一定以上存在するとは思うが、要は脳内で何をどう感じさせるかの問題なので、快楽だけ追い求めるのは脳味噌に薬剤やら刺激やら延々与えられる状態で、まともな人間の営みとも思えない。

で、結論など結局出ないのだけれど、まあ、みんな好きに生きるんだろうな、という、今の私よりちょっと上質かつ健全な生活で中庸を満喫するのが人類の未来のような気がする。

私はゲームとかパズルとかが好きでよく(と言うほどには最近は熱中してないなぁ)遊んでいるが、その人に応じた適当な課題を与えられ、それを解決し、評価され、満足すると言うようなサイクルが作られるのでは無いかと思う。あと、適度な競争と。

人間は逆立ちしたって神様にはなれない、とはガンダムの中で出てきたセリフであるが、ヒトという入れ物の中身はやっぱりそんなに進歩しないんじゃないかと。

では入れ物を拡張すれば、という話になると、それはもはやヒトでは無いものであり、人類の進歩とは若干ニュアンスが変わってくるのだと思う。

というわけで結論めいたもの。何だかんだ言って今の先進国はいい線行っている。世界は、エネルギー、水、食糧、適切な管理、適切な教育、もうちょっと進んだ自動化で、一種の理想の社会にたどり着く直前にあると思う。まあ、100年かかるか1000年かかるかわからん状態を直前と言っていいのか疑問ではあるが。

ラストスパートのこの今を、頑張って支えていこうじゃありませんか。

私は社会から脱落しててダメですが(←これがオチ)