春休みを使って無二が遊びに来たときに、学校生活についていろいろと教えてくれた。この存在が小学生の頃にクラス中でやっていた、しょうもない替え歌やアルプス一万尺、両手の指を叩き合って5本全て開くと終わる謎のゲームなど、今もまだ流行っているらしい。

 

小学校を卒業して既に20年以上経過している。一体、誰がどうやって継承しているのか、全国の子供たちはみんなこの遊びを知っている。自然発生しているとしか思えないくらいにその内容は酷似しており、ソファで寝転びながら『森のクマさん』の替え歌を歌っている無二を見たときは少し感動してしまった。

 

「いつから始まったのだろうか」とフォークロアの糸口に想いを馳せるが、そんな無粋なことをしなくても、彼らの間でこれからも口頭伝承されていくに違いない。何でも暴きたがる大人はそっと身を引いて「変な歌を歌うな」とクレーム入れては生意気な頬をつついていた。

 

「国語の教科書の物語で何が好きだ?」

 

そう聞いたのは、この存在が小学生の頃に国語の教科書が大好きだったからだ。新学期が始まる前に手に入った教科書を全部読んでしまうくらい好きだった。物語の面白いところを抜粋して掲載してくれる教科書は、ダイジェストで要所のみをつまんでくれるYoutubeショートみたいなものだ。

 

知らない漢字が出て来るのも楽しかった。正解を調べることはないが「きっとこう読む」と勘を働かせるのが楽しい。今でも『海岸』を見るたびに、頭の中に一瞬『うみよし』が浮かぶ。なぜか岸の字を『よし』と呼ぶことに決めたからだ。

 

2つ離れた兄の教科書は読めない漢字が多すぎたが、それでも一通り目を通していた。挿絵が少なくて文字が小さいことが新鮮だった。それから教科書自体のサイズが小さいことがカッコいい。設問も『考えよう』では無く『答えよ』なのが、サディスティックに尋問されているようで興奮する。

 

おかげで国語のテストに苦手意識を感じることが無く、今日までを過ごしている。全く物語を読まなくなったが、小学校1年生で『モチモチの木』と『ちいちゃんのかげおくり』の洗礼を受けた。逆に小学3年生に上がって、物語の真実を学ぶことで幼少期のトラウマは雲消霧散している。

 

とにかく、国語の教科書はこの存在にとって、ピンポンダッシュに失敗して学校に通報をされたことと同じくらい思い出深かった。それから、クラスのハムスターが多頭飼育でびっくりするくらい増えたこと、知らない人に胸を触られたこと、触ったらいけないボタンを押したことくらいに。

 

「ないたあかおにがすき」

 

無二は答えてくれたがイマイチどんな物語か覚えていない。「青鬼と結託して村人に取り入る話だよね?」とうろ覚えを披露すると「ちげーよ、ばか!」と得意げに聞かせてくれた。『概要』という言葉を知らない小学2年生は全部言う。Youtubeショートどころではない。

 

概要はこうだ。

 

①とある山に赤鬼が住んでおり、鬼は村人と仲良くしたかった。

②村人は鬼を警戒して近づいて来ない。

③友人の青鬼が「自分が暴れるから、それを制圧して欲しい。そうしたらみんな認めてくれる」と言う。

④実行。

⑤実行の際に青鬼を強く殴ってしまう。「痛い!」と叫ぶ青鬼を赤鬼はうっかり気遣ってしまう。

⑥村人は気遣う赤鬼を見て「いい鬼だ」と感心する。

⑦万事うまくいったが、後日、赤鬼と村人は青鬼を訪問する。青鬼は書置きを残していなくなる。

 

それ以来、ずっと頭に何かが引っ掛かっていた。物語に辻褄が合わないのだ。昔から国語の教科書に疑問を感じたことが無かったから、これはこの存在にとってとても大きな引っ掛かりだった。

 

「村人は赤鬼が青鬼を気遣ったのを見て『いい鬼だ』と感心したのか?」

「そうだよ」

 

「なぜ自作自演だと疑わなかった?ただでさえ警戒しているのに?」

「しらね」

 

「青鬼は村人が受け入れたことを知らないで旅立ったのか?」

「おまえみたいだな」

 

すごく変なストーリーだった。無二が帰宅した後もずっと考えてしまって、ついに図書館で全ての『ないたあかおに』の絵本を積み上げて目を通す。作者は『はまだひろすけ』で、積み上げた絵本は1996年~2006年に発行されている。文章は絵本に合わせて多少のニュアンスを変えていたが、無二が話してくれたようなストーリーでは無かった。

 

クライマックスからラスト、概要⑤~⑦が違う。やっぱり村人は、青鬼を気遣う赤鬼の姿に心を打たれたんじゃなかった。青鬼から守ってくれた赤鬼に警戒心が緩んで、そこから少しずつ仲良くなっている。アイスブレイクは青鬼の作戦で成し遂げたが、仲良くなれたのは赤鬼の努力によるものだった。

 

青鬼はそうやって努力する赤鬼を見ていたのだろう。旅立つ必要が無いにも関わらずそうしたのは、赤鬼がきっと自分も仲間に入れようとするだろうから。赤鬼がやっとこさ得た村人との信頼に、何か影を落としそうな予感がしたのだ。

 

これなら辻褄が合う。

 

ちゃんと、友情とそれがもたらす美しくも物悲しいストーリーが紡がれている。無二の話してくれたストーリーではツッコミどころがたくさんあった。青鬼のことをうっかり「コミュ力無い奴はダメだな」と思ってしまうのだ。現代に合わせて改変したのは、どの年代からだろうか。

 

あまりにも青鬼が報われないのは分かる。心に一抹残るさびしさに、何かを感じずにはいられない。歯がゆくて、誰も青鬼を見ていないことに、ちくりちくりとした痛みが胸を刺す。

 

それは分かるが、だからと言って破綻したストーリーでは何も残してやれない。そういうものが美しいと思う心が育ってないのは仕方ないのだ。『知らない』の種を撒いてやるのが教育で、子どもが成長するにつれて「こういう解釈も出来るな」と年齢と共に物語も育っていく。

 

国語の教科書に掲載される物語は、読んだ子どもを手放した先にまで何かを植え付けるからすごいのだ。芽が出るか出ないか、それは子どもたちが決めること。大人が物語を改悪してまで責任を持つものでは無い。

 

もっと子どもを信じて欲しい。彼らは何十年としょうもない替え歌を継承する偉大な精霊たちなのだから。

 

あの青鬼はきっと、

こう言うはずさ。

 

「赤鬼くんたち。大きくなったらまた会おう」