2月に入ってから、新規の案件が本格的に動き始めた。各業者に割り振りをしているが、中には「見積りはいらない」と言われる仕事がある。これは不吉の前兆で、災厄をもたらす利用者たちがよく使う手だ。

 

見積りがいらない、ということは誰にもこの仕事を回すことが出来ない。「お前がやれ」と名指しをされているようなもので、いつだって最高に面倒なことを押し付けられる。今回はそれが3件。立て続けに違うところからやって来た。昔に見た映画を思い出す。素晴らしい映画だが、自分が巻き込まれるのはごめんだと思っていた名作。その名も『パーフェクト・ストーム』

 

3件ともなかなかのハリケーンだが、愛らしいアンドレア・ゲイル号はその接近に対策を打っていた。この存在はそうもいかない。相当、香ばしい匂いをさせて座礁している難破船からのスタートとなる。放り込まれた渦潮で、あっぷあっぷしている無謀な企業の救出任務を受けた。

 

「いくらでもいいよ」

 

そう言う利用者は、電話の向こうでニヤついているに違いない。労力よりも適正な金額を重視する、こちらの小心をよく知っている。当てつけのような値段を出すほど落ちぶれていない。そんな虚勢はすぐに波にのまれるのを分かっているのに。それでも、他人の足元を見ることを何よりも嫌悪している。

 

「受けたくないのですが」

 

発注を断れるほど、この存在は偉くない。一応、気持ちは伝えてみたが、電話の向こうでは「いいや。君は受ける」と軽くいなされてしまう。そうだ。どうせ受けてしまう。断れるほど偉く無いし、何よりトラブルへの好奇心には勝てない。

 

「概要だけ、教えてもらえますか」

「ほらね」

 

さて、まずは1つ目のハリケーン。中国地方で起きてから、かなり時間が経っている。にっちもさっちもいかない可愛いアンドレア・ゲイル号は、昨年2店舗の閉店に追い込まれたお菓子屋さん。

 

立地も店構えもセンスがいいのに経営難に陥っている。怜悧な利用者は「コロナ禍を言い訳にしているから、立ち直るには目を覚まさせないといけない」と述べた。ホームページを閲覧するとその悪さがよく読み取れる。

 

「和三盆」

「インフルエンサー」

「インスタ映え」

「生クリーム乗せ放題」

「創業××年の味」

 

利用者と良くないワードを出し合ってから「たい焼き屋の内容としては0点ですね」と現在のスコアを告げた。商品説明欄には韓国のお菓子っぽいポップなデザインのたい焼きが掲載されている。そのくせ、店舗の外観は大型のプレハブを意識して作られていた。

 

塗装もされていない素地のままで、最近流行りのおしゃれなコンテナハウスでも無い。当初のターゲット層はファミリーやトラックドライバーだったのだろう。今や女子中学生や女子高生もターゲット層に加えたようだ。

 

若年層をターゲットに入れるのは悪いとは言わない。しかし、彼らの流行は早い。リピートにはつながらないし、上辺だけ真似たところで既存客からそっぽを向かれてしまう。そんなことは自明の理のはずなのに、ここまでカオスになってしまった。案外、言われてみないと分からないこともある。

 

「コロナのせいで、客層を広げて失敗しているんですね」

「店も君もその言い訳しか考えられないのか?」

 

利用者は呆れているが、店主の気持ちはこの存在の方が理解出来る。これを突破するには、どれだけ自分の足元を見られるかにかかっている。こういうことを何度も突破して来た。だから、他人の足元を見るのは嫌いなのだ。

 

 

 

正月明けに、久しぶりにデパートへ行った。仕事で煮詰まると、物言わぬデザイナーたちに会いたくなって来る。彼らは商品を通してイマジナリーを与える一時だけのミューズ。周遊するフロアの中にコスメフロアも含まれていた。買いもしないのに、色んなカウンターを覗き込んだ。

 

数あるコスメカウンターの中で、知っているブランドなんてほとんどない。それでも、学生時代に好きだったブランドを探して歩いた。やっと見つけたそこは、心ときめかせた場所ではなくなっていた。「あれ?」と思っていると美容部員が声をかけてくれた。

 

「アイシャドウも口紅も出していないのですか?」と聞くと、彼女はすまなそうに「もう生産もしていないんです」と答える。

 

「マスカラだけは出していますが、ヘレナルビンスタインは自社の理念に立ち戻っています。肌作りに専念するために、ファンデーションも出していません」

 

あまりに感動して声が出なかった。やはり、一流を見に来て良かったと思った。事業規模に関係無く、経営を縮小して自身の足元を見直す懸命さ。これが出来ないと突破は出来ない。たくさんの顧客の絶望よりもブランドは縮小を選択した。また蘇るために、一旦前線から退いたのだ。

 

「素晴らし過ぎる!」

「お肌が荒れていますね」

 

何万円もするクリームの効果はよく分からないが、彼らの理念はとてもリッチに心に浸透した。縮小する時間を悪く言う者もいるだろうが、この存在には偉大に感じる。その選択は悩みと苦しみの時間に違いない。そういう者の足元は見たくない。それを見るのは本人だけでいい。

 

 

 

「とことん縮小してもらいましょうか」

 

打合せ帰りの道すがら、利用者にそう言った。「頼んだよ」と少し顔を強張らせる利用者は、この存在の言葉の意図を分かっているらしい。座礁しているところを申し訳無いが、まだまだこの船には余計な物が詰めこまれている。全て取り払ったとき、このハリケーンを乗り切るだろうか。

 

愛らしいアンドレア・ゲイル号。

 

一緒に沈没はしてやれないが、水を掻きだすくらいはお手伝いが出来ると思う。何もかもすっかり無くしてしまって、そこから自身をつかみ取らないといけない。

 

それは船底にしか無いのだ。

足元のもっともっと下。

 

沈んでから、ちゃんと浮き上がっておいで。この荒波にたい焼きなんて、かなり縁起がいいんじゃない?