新卒時代の頃、上司に命令されて社内会議の議事録を取っていた。午後から始まるときもあれば、退勤時刻を超えた時間から始まることもある。全ては上役のスケジュールに合わせて決まっていた。

 

いろいろと不満はあったが、完成するまで帰宅出来ないのがすごく面倒くさい。ワケ分からない会社の業務内容を把握させるためにさせていることは分かっていたが、ワケ分からないことを分かるまで突き詰めさせられる。これが週に1度、頻度が高すぎる。

 

「分からないことがあったら、会議を止めてでも質問しないとダメだろ」と上司は言うが、あの空気で新米が何か発言することはためらわれた。右も左も分からない者がそれをやり始めたら、どこまで遡って質問しないといけないのか。どこの会社の新米も、きっとこの壁にブチ当たっているはず。

 

そう思っていたのに、同期入社の新米にはその命令は下らなかった。「どうして自分ばっかり」と不遇を嘆いていたが、それすら口に出すことは許されない。裏紙に印刷した紙を上司の元に持って行って突き返されるやりとりは本当に苦痛だった。

 

曖昧な表現をすれば「会議でこんなことは言っていない」と言われるし、会議で発言された口語を記載すれば「書面にするのにこの文章はおかしいと思わないのか」と叱られる。聞き逃した部分や、理解出来ていない部分は「本人に聞いて来い」と部署から蹴り出された。

 

同じ部署の上司でも怖いのに、違う部署の上役なんて本当怖い。特に営業部の部長は質問するたびに嫌な顔をされる。ただでさえ忙しいのに、たかが議事録ごときの質疑に返答する時間は無い。しかも、持って来るのは何も知らないウサギちゃん。おどおどしながら「へ?」を繰り返す新米に「だから!」とイラ立ちを隠しもしなかった。

 

「だから!この現場に搬入する家具を運ぶトラックをチャーターするなら、その進路上にある現場の搬出部材を詰め込めないか?って交渉をこの日までにするって話だろ!見積書もルートもそのままなの!搬出した部材は家具を下ろす現場で引き取って、一緒に混廃でゴミを出したら安くなるでしょ!」

 

「…へ?」

 

ワケが分かったら、この話を議事録仕様の言葉に置き換える。上司から「なんで『だから』って書くんだよ」とうんざりされた。

 

しかし、それはまだマシな方で、これが社長やマネージャーならもう居場所は分からない。社内チャットで問い合わせてもナシのつぶて。社長室の扉をノックしようとする震えるウサギちゃんを上司はさすがに止めていた。これが週に1度。前日から憂鬱でいっぱいの頭を抱えながら、他の役割を振られている同期の不満を聞く。

 

「議事録って、…そんなに大事ですか?」と、ある日途方に暮れたウサギちゃんは設計部山の怪物にたずねた。怪物は冷淡に「1番大事」と答える。「どうして?」とウサギちゃんは聞きたかったが、怪物はお池の水面に浮かぶ設備図面に意識を戻してしまった。

 

何ヶ月もワケの分からない話をつなぎ合わせて四苦八苦していた。その週の会議、相変わらずの暗い表情でウサギちゃんはノートパソコンを開いた。ずらりと机を囲むお山の怪物たちを見上げられないで、過去の議事録をカスケードして開始を待っていた。隣の席には設計部山の怪物。気合を入れるために噛むフリスクがもう怖い。

 

会議が始まると、営業部山の怪物が「××の現場ですが、トラックの了解が取れました。搬出作業届は何日までに取れますか?」と言った。その呼びかけに工事部山の怪物が「午前は現場の搬入口は埋まってますが、16時以降ならすぐに入れるように手配出来ます」と言った。

 

ウサギちゃんは顔を上げた。

 

突然、不審な動きをするウサギちゃんに怪物は「何?」と言って訝しんでいる。鬱屈でいっぱいの脳内の霧が一気に晴れ渡り、その快感で「私、分かりました!」と大きな声が出た。そう、分かったのだ。初めて何を言っているのかが分かった。言葉がつながる快感に電気刺激が走った。

 

今でもあの感動を覚えている。怪物たちがただの人間に見えたことも、設計部の上司が「おっそ」と言ったことも。

 

それ以来、何も怖く無くなった。会議の途中でも「今のは議事録に残しますか?」と声を上げられるようになり、上司の確認は疎かになっていった。書類としての文章の書き方はワケがか分かったら格段に上手くなった。その会社を辞めても議事録力は健在だ。

 

諸官庁に協議に行ったときも、必ず議事録を作成して関係者に配っている。この仕事に就いて早10年。まだ何も効力を感じたことは無いが、それは全員が見返せるからトラブルは未然にふさがれている。

 

多くの時間を取られ、かなりのHPを消費した。什器図面すら満足に書けなかったあの頃、初めて仕事で「出来た!」と思えた経験だったのだ。日々、頭の回る利用者を前にして話をしていると思い出す。こんなに恐ろしい怪物に面と向かって言いたいことを言えるのは議事録力があるから。

 

あの日のウサギちゃんは、すっかりこのお山の怪物となってしまった。今日も取引先の新米から議事録が送られて来る。下手な文章と聞き取れなかったであろう曖昧な表現。エールと、かの山の怪物たちに感謝を込めて、メールを即座に突っ返す。

 

『こんなことは言っておりません』