トンポ・トンネ 日々イモジョモ -159ページ目

トンポ・トンネ 日々イモジョモ

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中央芸術競演大会の表彰式
1028日・金曜日】
 仕事に行く前に、東京中高へ。
校門に入ると、「プニョーニワッタ[豊作が来た]」の大きな歌声が聞こえてきた。文化会館が騒がしい。ロビーには、大小のキャリーバックが整然と並べられていた。


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昨日は、何か所かで、地方大会で選ばれた優秀作品が全国の頂点を争った。この日は、その審査発表と優秀作品の公演が予定されている。息子や娘だけではなく、甥っ子、姪っ子の「追っかけ」が会場に駆けつけたようだ。「熱狂的」ともいえる保護者が、この数年で確実に「増殖」している。
中央芸術競演大会の表彰式が始まった。演目に続き、学校名が発表されるたびに、歓声というより悲鳴だ。
「キャー」「キャー」
拍手も鳴りやまない。競演大会ならではの光景だ。
出演者より、通路を埋めた学父母が興奮しているようだ。手を取り合っている。
会場を出てくる生徒たちも興奮気味だ。抱き合って…涙が頬を伝わって流れている。拭おうともしない。喜びか、悔しさか、「チャルヘッタ」という言葉だけは共通していた。


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運動場から「万豊年」の歌声だ。
三年生がとてもよかった一年生は
学校創立七〇周年のイベントが迫っている。その練習なのだろう。スタンドに並んだ生徒たちは冬服だった。
その後の優秀作品の発表会を見ることができなくて残念に思った。ソウルから来ている「ウリハッキョと子どもたちを守る市民の会」の一二人のメンバが―、文科省前への申し入れの前に立ち寄るのではないかという話を聞いた。
 
追・校門を出て、十条駅に向かいながら思い浮かんだこと―。
 小中高在学中、こうした大会があったことすら知らない。今回で、四九回目だというから、第一回大会は、一九六七年、東京朝高を卒業する前年である。
 当時、東京中高にはブラスバンド部と舞踊部があったことは、覚えている。
学生服の一番上のボタンをはずし、トロンボーンを吹く、長身のシン・イルサンは格好良かった。東京第三初級の同級生だ。小太鼓を叩く女子学生は、羨望の的だった。帰国した。舞踊部は当時も目立っていた。合唱部はあったのだろうか? 民族器楽部はなかったと思う。
共和国から大量の民族楽器が送られてきたのが、一九六六年。五月に東京第一初中で、民族楽器伝達式が行われたとの記録が残っている。楽器を保管する場所がなく、急きょ鉄筋三階の建物を新築した。
建ぺい率違反か何かで行政の指導が入り、建築は一時中断。建築業者も撤収してしまい、その後始末を任されたのがアボジだった。竣工と同時に、アボジの一級建築士の資格ははく奪された。
今は跡形もないが、当時は「音楽舞踊センター」と呼ばれ、その後幼稚園として利用された。
後日、韓徳銖中央議長からその一部始終を聞いたことがある。議長は東京朝高の草創期から教壇に立っていたアボジをいつも「キム・ジョンスンソンセンニム」と呼んでいた。議長が「ソンセンニム」ではなく、「キム・ジョンスントンム」と呼ぶときは、決まって無理難題を。東京第一のときも「トンム」だったと、笑って話していた、そんなアボジの面影が浮かんだ。
 東京第三に通っていたころに、この大会が催されていたとしたら、私も晴れの舞台に立っていたかも…電車の中で、そんな「妄想」がふくらんだ。
 楽器といえば、カスタネットしか手にしたことがないが、学芸会で独唱したことがある。四年か、五年生の時だと思う。
 今でもときどきその曲を口ずさんでいる。
 
저무는 하늘에 별이 삼형제
반짝반짝 정답게 지내더라
 
왠일인지 하나 보이지 않고
남은 별이 둘이서 눈물 흘린다
 
一九三〇年代から歌い継がれてきた、「형제별(星の三兄弟)」。三番は覚えていない。
ミュージカル?の舞台に立たされたこともあった。踊りながらの劇中のセリフはすべて歌だった。
眠りから覚めた主役のミツバチがうたう。
여기가 어딘가요
꿈나라 인기요
슬픔은 어디가고 기쁨이 넘치구나
동무들은 누군가요
꿈나라의 동문가요
꿈나라의 동문가요
ここはどこですか/夢の国ですか/悲しみは去り/喜びだけがあふれている/みなさんは誰ですか/夢の中の人ですか?目の中の人ですか
 
すると、花々が次のように応える。
꿈나라가 아니야 우리의 나라
일하며 배우는 서로 익히는
아름다운 우리의 꽃동산이요
꽃동산이요
夢の国ではありません/私たちの国です/働き学び互いに教えあう/美しい私たちの花園です/ああ花園です
 
 針金を丸い輪にして、そこに黄色い布を張った蜂の羽を背負い、手をひらひらしながら舞台を行ったり来たり、そんなことを覚えている。
 私の「華やかな」舞台生活は、そこで終わっている。今思うと、変声期を上手に越せなかったようだ。朝中や朝高でマイクの前に立つことなかった。朝大に入学した年、催された大音楽舞踊叙事詩に動員されたが、スポットライトが当たる場所に立ってはいない。
 ××
「中央大会」は、来年五〇回を迎える。練習に明け暮れた児童・生徒、スポットライトを浴びたものもいれば、悔し涙を流したものもいただろう。それを見守ってきた先生、保護者、数々の思いが詰まっているようだ。
fbには、一緒に舞台に立った同級生と二〇年ぶりに会えたとか、これも子どもたちをウリハッキョに送ったお陰だという話が、次々とアップされていた。
そんなこんな思いが交差し、あやうく電車を降りそこなうところだった。


□fbでのコメン 文 垣貴 2016・11・2
針金作りの黄色い羽を背負った紅顔の金日宇少年を想像すると笑えました(^.^)

 今年49回目を数えるという中央芸術競演大会。恒例化元年は68年でした。この年の大会に関東代表として出場、全国1位となった東京第1の吹奏楽部員だった僕が、初めて経験した中央大会だったのでよく覚えています。当時の会場は朝大講堂。関東地方大会の会場は総連中央会館でした。

 この年から今年までほぼ毎年行われてきた中央大会ですが、なぜか76、77の両年は催されていません。49回目という事だから、恒例化した68年より前に2回、いずれかの年に行われている事に。
 手元に東京中高吹奏楽部創部60周年を記念して発刊されたパンフ(2009年)があります。記載の年表で競演大会が最初に記されているのが64年で、以後3年間は空白。推測ですが65年の初の大マスゲーム、66年の初の大音楽舞踊叙事詩公演といった一大イベントにエネルギーが注がれたのが影響したのかも。
 さて、49回を数えるにはあと1回催されている訳で、それがいつかは謎です。まさか数え間違え、はないでしょうね(^^;

 東京第1の「音楽舞踊センター」の3階建て建物はよく覚えています。僕ら生徒たちは「幼稚班校舎」とか「講堂」と呼んでいたので別の呼び名があったのは今回初めて知りました。
 この建物が竣工したのは68年。奇しくも中央芸術競演大会の恒例化元年となった同じ年。僕は中2でした。元はプールの場所で、建築中はプールがなくなる寂しさの方が生徒たちにとって上回っていました。この建築に日宇さんのアボニムが関わられた hidden story があったのですね。
 66年に平壌から送られてきた多数(確か総数120点?)の民族楽器をガラスのキャビネットの中で展示しながら、放課後は新たに創設された民族楽器部が練習するスペース・部室が2階に。3階は講堂というか多目的スペースとなっており、ここで舞踊部が練習したかも(記憶が曖昧)。1階は幼稚班の教室が数部屋と職員室が。建物の前は小さな園庭として砂場やブランコがありました。後から直したのではなく、竣工当初からでしたので計画通りだったと思います。
 しかし、竣工と間髪を入れずアボニムの一級建築士資格が剥奪されたとは…。

□再投稿・文 垣貴  2016・11・4
針金細工の黄色い羽を背負って歌い舞う、紅顔の金日宇少年が目に浮かび笑えました(^.^)

今年49回目を数えるという中央芸術競演大会、恒例化元年は68年でした。この時僕は中2。この年の大会に関東代表として出場、全国1位となった東京第1初中の吹奏楽部員だった僕が、初めて経験した中央大会だったので50年近く経った今もよく覚えています。
当時の会場は朝大講堂。幸い僕は高3まで毎年出場するチャンスに恵まれたのですが、会場は71年から同年竣工した東京朝鮮文化会館に移ります。オッと失礼、高1の時は35人の出場者枠から漏れ、僕は観客席にいましたっけ。そう、当時、東京朝高の吹奏楽部は60人近い大所帯だったので、競演大会出場も選抜される悲喜がありました。
会場の観客席は前側に審査員の先生方が陣取り、後ろ側には競演舞台を終えた生徒たちが、舞台上のパフォーマンスを固唾を飲んで見守るのが当時の風景。今のように学父母や一般の人たちが応援に来たり、多くの人が録画に興じる、祝典のような華やいだ賑わいはありませんでした。
勿論、スマホやホームビデオはおろかカセットテープもなく、そもそも録音機はモノラルのオープンリールの時代。自分たちの演奏を録音する発想そのものがありませんでした。カセットが出現したのが71年頃、それから更にステレオで録音できる時代が到来したのは、僕らが高校を卒業した後の73年頃でしたか。
当時の大会期間は3日間。2日間で審査し、最終日は優秀作品発表(当時は模範演奏・演技との呼称)に充てられました。表彰は現在のような金、銀、銅賞ではなく1、2、3等の順位。当時は1等が1校のみ。どこの校もそのレベルになければ1等なしの2等という形でしたが、2等以下は複数校の受賞があったかもしれません。優秀作品として発表するのは当然、1等の1校のみ。
現在なら、金賞が数校で優秀作品発表も複数、というケースもありますが、当時の方がスポーツ競技的な順位だった分、1等の感激はひとしおだったし、発表舞台に上がるのは正に誇らしい気持ちでした。

68年から今年までほぼ毎年行われてきた中央大会ですが、なぜか76、77の両年は催されていません。
これが涙の青春物語へと繋がります。当時、吹奏楽で東京朝高は68年から7連覇を成し遂げた実力校でしたが、75年に神戸朝高の後塵を拝する結果に。自滅でした。課題曲のソロ部分で音が出ない致命的ミス。取り返しのつかない悔しさと、連覇を途切れさせた申し訳なさに皆が泣きました。
翌日から部員たちは次の大会での雪辱を期して猛練習の日々。ところが肝心の大会は翌年も、更に翌々年も行われません。屈辱を味わった年に1年生だった部員たちも、とうとう汚名返上の機会がないまま、涙で卒業式に臨みました。結局、大会が再開された78年に1等賞を取り返して溜飲を下げる事に。
その後、紆余曲折を経て83年には全日本吹奏楽連盟主催のコンクール地区大会に初参加。そして87年、地区予選を勝ち抜いてブラバンの甲子園・普門館での全国大会で遂に銅賞を受賞。これは今日まで後にも先にも朝鮮学校で日本の全国コンクールに出場して賞を得た唯一の快挙です。この時期を前後して東京朝高は、中央芸術競演大会でも圧倒的強さを誇りました。しかしそれも「諸行無常」、90年代には部員数が数人にまで激減して廃部の危機に。何とか伝統の灯を絶やさず今日まで来ましたが、近年の実績はご存知の通り。ま、明けない夜はない、と言いますので。焦らず。今は演奏を、音楽を楽しんで、との思いでOBとして後輩たちを見守っています。

さて、中央芸術競演大会は今年49回目になるのだから、68年より前に2回、不定期に行われていた、という事になりますね。
手元に東京中高吹奏楽部創部60周年を記念して発刊されたパンフ(2009年)があります。記載の年表で競演大会が最初に記されているのが64年、とありますが、高校だけだったのか、全国規模だったのか、詳細が載っていません。それ以後3年間は空白。推測ですが65年の初の大マスゲーム、66年の初の大音楽舞踊叙事詩公演といった一大イベントにエネルギーが注がれたのが影響したのかも。
では、残りの1回がいつ催されたのか、分かりません。謎ですね。まさか数え間違え、はないでしょうね(^^;

東京第1の「音楽舞踊センター」の3階建て建物はよく覚えています。僕ら生徒たちは「幼稚班校舎」とか「講堂」と呼んでいたので別の呼び名があったのは今回初めて知りました。
この建物が竣工したのは68年。奇しくも中央芸術競演大会の恒例化元年となった同じ年(僕は中2)でした。元はプールがあった場所で、建築中はプールがなくなる寂しさの方が、生徒たちにとっては上回っていました。この建築に日宇さんのアボニムが関わられた hidden story があったのですね。
66年に平壌から送られてきた多数(確か総数120点?)の民族楽器をガラスのキャビネットの中で展示しながら、放課後は新たに創設された民族楽器部が練習するスペース・部室が2階に。3階は講堂というか多目的スペースとなっており、ここで舞踊部が練習したかも(記憶が曖昧)。1階は幼稚班の教室が数部屋と職員室が。建物の前は小さな園庭として砂場やブランコがありました。後から直したのではなく、竣工当初からでしたので計画通りだったと思います。
しかし、竣工と間髪を入れずアボニムの一級建築士資格が剥奪されたとは…。

■最終稿
文 垣貴 針金細工の黄色い羽を背負って歌い舞う、紅顔の金日宇少年が目に浮かび笑えました(^.^)

今年49回目を数えるという中央芸術競演大会、恒例化元年は68年でした。この時僕は中2。この年の大会に関東代表として出場、全国1位となった東京第1初中の吹奏楽部員だった僕が、初めて経験した中央大会だったので50年近く経った今もよく覚えています。
当時の会場は朝大講堂。幸い僕は高3まで毎年出場するチャンスに恵まれたのですが、会場は71年から同年竣工した東京朝鮮文化会館に移ります。オッと失礼、高1の時は35人の出場者枠から漏れ、僕は観客席にいましたっけ。そう、当時、東京朝高の吹奏楽部は60人近い大所帯だったので、競演大会出場も選抜される悲喜がありました。
会場の観客席は前側に審査員の先生方が陣取り、後ろ側には競演舞台を終えた生徒たちが、舞台上のパフォーマンスを固唾を飲んで見守るのが当時の風景。今のように学父母や一般の人たちが応援に来たり、多くの人が録画に興じる、祝典のような華やいだ賑わいはありませんでした。
勿論、スマホやホームビデオはおろかカセットテープもなく、そもそも録音機はモノラルのオープンリールの時代。自分たちの演奏を録音する発想そのものがありませんでした。カセットが出現したのが71年頃、それから更にステレオで録音できる時代が到来したのは、僕らが高校を卒業した後の73年頃でしたか。
当時の大会期間は3日間。2日間で審査し、最終日は優秀作品発表(当時は模範演奏・演技との呼称)に充てられました。表彰は現在のような金、銀、銅賞ではなく1、2、3等の順位。当時は1等が1校のみ。どこの校もそのレベルになければ1等なしの2等という形でしたが、2等以下は複数校の受賞があったかもしれません。優秀作品として発表するのは当然、1等の1校のみ。
現在なら金賞が数校で優秀作品発表も複数というケースもありますが、当時の方がスポーツ競技的な順位だった分、1等の感激はひとしおだったし、発表舞台に上がるのは正に誇らしい気持ちだったのではないでしょうか。

68年から今年までほぼ毎年行われてきた中央大会ですが、なぜか76、77の両年は催されていません。
これが涙の青春物語へと繋がります。当時、吹奏楽で東京朝高は68年から7連覇を成し遂げた実力校でしたが、75年に神戸朝高の後塵を拝する結果に。自滅でした。課題曲のソロ部分で音が出ない致命的ミス。取り返しのつかない悔しさと、連覇を途切れさせた責任の重さ、申し訳なさに皆が泣きました。
翌日から部員たちは次の大会での雪辱を期して猛練習の日々に明け暮れます。ところが肝心の大会は翌年に行われず、それなら来年こそと決意を新たにした翌々年も行われません。屈辱を味わった年に1年生だった部員たちも、とうとう汚名返上の機会がないまま、涙で卒業式に臨みました。結局、大会が再開された78年に1等賞を取り返して溜飲を下げる事に。
その後、紆余曲折を経て83年には全日本吹奏楽連盟主催のコンクール地区大会に初参加。そして87年、地区予選を勝ち抜いてブラバンの甲子園・普門館での全国大会で遂に銅賞を受賞。これは今日まで後にも先にも朝鮮学校で日本の全国コンクールに出場して賞を得た唯一の快挙です。この時期を前後して東京朝高は、中央芸術競演大会でも圧倒的強さを誇りました。しかしそれも「諸行無常」、90年代には部員数が数人にまで激減して廃部の危機に。何とか少しずつ盛り返し、伝統の灯を絶やさず今日まで来ましたが、近年の成績は周知の通り。ま、明けない夜はない、と言いますので。今の後輩たちには演奏を、音楽を楽しんで、との思いでOBとして見守っています。

さて、中央芸術競演大会は今年49回目になるのだから、68年より前に2回、不定期に行われていた、という事になりますね。
手元に東京中高吹奏楽部創部60周年を記念して発刊されたパンフ(2009年)があります。記載の年表で競演大会が最初に記されているのが64年、とありますが、高校だけだったのか、全国規模だったのか、詳細が載っていません。それ以後3年間は空白。推測ですが65年の初の大マスゲーム、66年の初の大音楽舞踊叙事詩公演といった一大イベントにエネルギーが注がれたのが影響したのかも。
では、残りの1回がいつ催されたのか、分かりません。謎ですね。まさか数え間違え、はないでしょうね(^^;

東京第1の「音楽舞踊センター」の3階建て建物はよく覚えています。僕ら生徒たちは「幼稚班校舎」とか「講堂」と呼んでいたので別の呼び名があったのは今回初めて知りました。
この建物が竣工したのは68年。奇しくも中央芸術競演大会の恒例化元年となった同じ年(僕は中2)でした。元はプールがあった場所で、建築中はプールがなくなる寂しさの方が、生徒たちにとっては上回っていました。この建築に日宇さんのアボニムが関わられた hidden story があったのですね。
66年に平壌から送られてきた多数(確か総数120点?)の民族楽器をガラスのキャビネットの中で展示する一方、放課後は新たに創設された民族楽器部が、その楽器で練習するスペースとしての部室が2階に。この部から、後に当時の中央芸術競演大会で不動の強さを誇った東京朝高民管クラブの、中心勢力が巣立った事を付け加えておきます。
3階は講堂というか多目的スペースとなっており、ここで舞踊部が練習したかも(記憶が曖昧)。1階は幼稚班の教室が数部屋と職員室が。建物の前は小さな園庭として砂場やブランコがありました。後から直したのではなく、竣工当初からでしたので計画通りだったと思います。
しかし、竣工と間髪を入れずアボニムの一級建築士資格が剥奪されたとは…。