祝典で懐かしのメロディー
【11月20日・日曜日】
東京中高創立七〇周年行事へ。大会、公演、祝祭の三本立てだ。
一一時スタートだと思い込んでいて、大会に参加できなかった。記念委員長か、実行委員長かの報告に、場内から笑いが巻き起こったと聞いて、その雰囲気を味わうことができず、残念に思った。
文化会館のロビーに展示された七〇年の足跡、卒業生の写真を前に歓声が沸き、高齢者たちは思い出話にふけっていた。

もしやと思っていたが、私たち一九六八年卒の一八期生の写真はなかった。前後して、卒業写真どころか、運動会や遠足の集合写真を撮ることを禁じられていた時代だ。ようやく一枚のスナップ写真を発見することができた。サッカー部の対外試合後のスナップだ。一級先輩を中心に、ガンサン、チュンウ、ミョンシク、ソンテら、同級生の雄姿がよみがえった。

草創期から都立時代を経て、一九六〇年代初頭まで、同校で教壇に立っていたアボジの写真が、少し誇らしかった。チェ・ドンオク先生、キム・ソッポン先生、ナム・シウ先生…名前が思い出せなかったが、よく家に遊びに来ていた先生の懐かしい姿があった。都立時代、一緒に暮らしていた梶井先生を確認することができた。

記念公演では「万豊年」に心が躍った。朝大に入学した年、大規模な音楽舞踊叙事詩の公演の時、この「プニョニワッタ」をうたった。あれから半世紀が過ぎようとしているのに、歌い踊り継がれている。「苦難の行軍」の時期に観たときも、「違和感」よりは、「いつかは」という思いで心が熱くなった。
舞踊部の「チョゴリ-魂を抱いて」は圧巻、「素晴らしいの」一言だ。
学区内の少年団による「われらは朝鮮の息子・娘たちだ」もよかった。韓徳銖初代議長がつくった歌は、「祖国のサラン…」、「イマンジョマンアニラオ」などとともに、これからも「親しみのある聞きなれた」歌として、オーソドックスにうたいつないで欲しいと思った。
七〇周年を迎えた、各地のウリハッキョの共通のスローガンは、「一〇〇周年を」だ。欲を言うなら、これから三〇年間歌い継がれる、そんな歌が聴きたかった。
この日、舞台に立った生徒の三〇年後を想像した。四〇代だ。その子どもたちは、創立一〇〇周年を祝う舞台に立っているのだろうか? その時「万豊年」は? どうであれ、その舞台だけは守り続けてほしいと思った。
三部の記念祝典は、文化会館の前の校庭いっぱいにテーブル席を設けて催された。
売店には長蛇の列ができていた。テーブルの間を行き来しながら同級生を探したが、見当たらない。しばらくすると携帯が鳴った。文化会館を背に中央右手とのことだ。飲み始めていた。
一段高い文化会館の前の空間が祝典の舞台だ。開会が宣言されたが、準備に手間取っているのか、演説する者も、歌う者も、踊る者もあらわれない。
「うちらがうたおう…」
この一言でみんなその気になっている。
「赤いチョゴリは?」
「東京―平壌? 今年も豊年…だったっけ…」
「えんやこらえんやこらえんやらこらどっこいしょ…歌詞が分からない…」
「いつも同窓会でうたっているタジョンハン トンム[懐かしい友よ]は?」
「校歌しかないか」
そんなな言葉が交わされ、一方では司会を任された東京歌舞団に「勝手に」申請しに行くトンムも…。
舞台では、三代にわたる卒業生と在校生が紹介されていた。
学年別の卒業生の紹介は予定されていない、まして歌など。ただ、世界チャンピョンのホン・チャンスと劇団四季で活躍していたトンムを同級生と共に舞台で、紹介することにはなっていたようだ。
それでもなんとなく、一八期が舞台に招かれた。

言い出しっぺのリョムトンムが「一八期凄いんですよ…校長、教育会の会長、前職も含めて一八期です。それから元東京都本部の委員長も…それに商工連の会長に就く前からかれは、一八期同窓会の会長です。あれ、長野の委員長どこに…」
うたう歌が決まってないはず。「何にする」と言いながら彼は、「チャルラニ…」と歌い始めていた。「勝手に」だ。
こうして「ミジェヤ ムルロカラ[アメリカは手を引け]」が高らかに歌われることになった。この何十年間聞いたことがない歌だ。それなのに、歌詞は覚えているものだ。
会場からの「チョッタ」の掛け声と手拍子に気をよくしてか、最後は一三人、皆がこぶしを振り上げて、「ミジェヤ ムルロカラ」と叫んでいた。
その後、五期生やいくつか期別に紹介されて舞台に立って歌っていたのが校歌だった。選曲に間違いなかった。
終わった後、駅近の居酒屋で、「チョンファ」、反省会、反省が足りなかった連中は場所を移して、再度の反省会。それでも九時には散会した。延々と飲み歩くことはしなくなった。
一八期が学校の創立記念日でこうして会うことができるのも、今回が最後かもしれない。それで、互いに声をかけ会い集まり、悪乗りして舞台に上がったようだ。