トンポ・トンネ 日々イモジョモ -146ページ目

トンポ・トンネ 日々イモジョモ

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西東京第二の訪問ツアー
【1月26日・木曜日】
 ビビンバネット(神奈川の朝鮮学校と多文化共生を考えるネットワーク)が主催する「朝鮮学校訪問ツアー」で、町田市にある西東京朝鮮第二幼初中級学校へ。最寄りの成瀬駅で合流するはずだったが、横浜駅での乗り換えを間違え、どうにか自己紹介の時間に間に合った。
 一〇人前後だと思っていたが、三〇人近くの人びとがテーブルを囲んでいた。市議会議員が六人、平壌を訪問した学生もいて、比較的若者が多い。
 まずは、今年度(二〇一六年度)に復活した中級部の一年生による校内見学。一階の幼稚班、二階の教室、図書コーナーに音楽室、美術室、舞踊室、体育館を日本語で案内するのだが、「ヨギヌン[ここは]」とか、「「クロッスムニダ[そうですね]」とか、時折、ウリマルが。「参加者からは日本語より朝鮮語か…凄い…」との反応だ。
 「…床は幼児が転んでもケガをしないように柔らく…」、「小さい子が使いやすく、洗い場も便器も…」、「園児の声を聞くと元気が…」。
 消防署見学で園児の姿はなかった。テーブルにはカラフルな弁当箱が並べられていた。大きめの二段の弁当は、先生のだろう。
 見学者の中からは、事細かな質問が飛んでいた。
「…二歳児も…布団は?」との問いには、李校長が「リースです。シーツは自前…」と、応じていた。
「ここからの展望は素晴らしいですよ…電車も…」、「図書はオモニたちが…」。
 時折、笑いを誘う三人の案内人の息があっていた。
 図書コーナーでは、日本のアニメのハングル版の本をカメラに収める人もいた。
 「韓国のですよね…北朝鮮ではなく、韓国の本がぎっしり…」
 「日本政府の制裁で、共和国から児童書や教育資材が入ってこられなくなって久しい」との説明に、「そんなことって…」っていいながら、首をかしげていた。
初級部五年生は社会の時間だ。
黒板に葛飾北斎の絵が貼られ、授業はウリマルで行われているのだが、「町民」とか、「歌舞伎」とか、「浄瑠璃」とかの言葉は日本語だ。
 「朝鮮学校で…浮世絵? 江戸文化?」何人かが教科書をのぞき込んでいた。 
 五年生で日本史を、朝鮮史は六年生になってからという、説明にうなずいていた。
 三年生の教室の前の廊下に貼られた「漢字一文字」も注目をひいていた。


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 「今年の目標です」との説明に、「姉」がなぜかという質問。姉の字の上に、三年生は低学年のマジ[]なので、妹・弟の面倒をみるとの説明文の訳を聞いて、うなずいていた。その上に貼られた「兄」という一文字の主旨も同じようなことが書かれていた。低学年の面倒を見ることが「目標」なんて、ウリハッキョならではの一文字なの知れない。
 一年生は、「」の文字を習っていた。黒板には「깨끗이 딲자」という、タイトルが書かれていた。
教科書を先生と一緒に、児童たちだけで、何度も繰り返し読んでいた。
 先生が、十字に仕切った四つのマス目の下の二つの欄に一つずつ少し離して「」の文字を二つ並べて書き込む。
 先生・「どうですか?」
 児童・「もう少しくっつけて…」
 その後の一言に驚いた。「兄弟だから」。「」は「」の二人の兄弟だというのだ。学校周りをしていると、児童ならではの発想に出会えるが、この日もまたほのぼのとした場面に遭遇できた。
 
 一升が十字に仕切られたプリントが配られる。受けとった児童の口からは「コマウォヨ」、ありがとうのかわいい声が教室のあちこちから聞こえてきた。
そのプリントに、児童たちは仲良し兄弟の「」の文字を書き込んでいた。
 一階玄関付近が騒がしい。消防署見学に行っていた園児が戻ってきたのだ。
手洗いをするとすぐに昼食だ。当番の「モッケッスムニダ」の言葉に声を合わせる児童の姿に見学者からも笑みがこぼれていた。
 私・「今日はお弁当の日?」
 先生・「週に三回はランチルームで給食ですが、今日はオモニの手作りの…」
 私・「先生のお弁当は?」
 先生・「オモニのです…」
 園児たちのオモニもそうだが、先生のオモニも週三回はお弁当作りから解放されるようだ。
  ハート形の焼き卵に、園児からは「いいな」コールだ。持ってきた児童は、弁当をゆっくり一周させて、食べ始めてた。


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  一時間の授業参観を終えると、ランチルームでの懇談会だ。
まず、「在日」と言う言葉に抵抗がある、私が自己紹介するときは朝鮮人二世にしているという、裵さんが在日の歴史と朝鮮学校の歩みを述べた。つづいて李校長が自らの体験を交えて、解放から現在に至るまでの同校の足跡を語った。
 …小学校のころ、運動場が狭くて、運動会の徒競走のスタートラインは、校門の外だった。
 …校長として赴任した当時、鉄筋三階の建物だったが、雨漏りが…。雨が降るというと、子どもたちが滑らないように教職員が総出で廊下に段ボールをひいて…階段は傘をさして…。
 学校の案内看板に黒い墨が…看板の裏にはカミソリがテープで貼られていた…墨を洗い落とすことができず、やむなく看板を撤去した―拉致報道後の出来事だ。
 朝鮮学校には防犯ブザーを配らないと、町田市の職員が言いに来たときは体の震えが止まらなかった。―二〇一四年三月の話だ。
 なかでも「私が私であるためにウリハッキョがある」との話に、涙ぐむ参加者もいた。
 …七歳の時に父を亡くした。日本人の母は、それでも私を朝鮮学校に送った。父の遺言だったようだ。そのとき私が朝鮮学校に行ったから、朝鮮人である自分が決して蔑まれる存在ではなく、自分が自分であるとの誇りを持てたと思う。もし日本学校に行っていたら、父の存在を恥ずかしく思ったのでは…。朝鮮学校で学ぶことによって、アボジの娘になれたと思う。オモニは九四歳で逝くまで、朝鮮学校の教壇に立つ私を応援してくれた。生活が苦しい時期もあった。あの時、オモニが私を朝鮮学校に入学させなかったら今の私はなかったと思う。…
 進路は? 卒業した後のつながりは? 給食は? 補助金は?
 「少人数なので、先生の目が届いてすごくいい環境…」、「一つの部屋でたくさんの子どもが勉強していると思っていたが…」、「老朽化した横浜の学校をイメージしてきたので、あまりに校舎が立派で…」。


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 三分の一強が朝鮮学校初訪問だということもあって、様々な意見が出た。
 懇談会を終わり、再び二階に行くと、昼食を終えた児童が先生と一緒に歯磨きをしていた。歯磨きをしながらも「アンニョンハシムニカ」だ。
 四月には初級部に二桁の新入生が見込まれている。中級部は、今は一年生だけだが、新年二〇一七年度は卓球室になっている二年生の教室に一年生が移り、二〇一八年度には三つの教室が埋まっていくのだろう。
 幼児がつくったという段ボールのユーモラスなロボットに見送られて、参加者は三々五々学校を後にした。


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◇後日談
 帰りの京浜東北線の車中でfbを見ると、「不当判決」の第一報。大阪地裁の朝鮮学校への補助金支給(大阪府・市)に対する判決だ。
 怒りと憤りの声が次々とアップされている。
 なぜか、思い浮かんだのは、弁当のハートの卵焼きを楽しそうに食べる園児と、笑顔で学校案内をしてくれたノッポの「ハヌル」トンムの姿だ。この子たちの存在が踏みにじられてたということだ。
 
◇後日談2
 その「ハヌル」トンムを四日後、東京中高美術部の部展で見た。
 これは第二次世界大戦のヒトラーの…上の写真はゲバラです…みなさんが…私には関係ない…ではなく…関心を向けるべきだと…。
アーチストトークの二番手として、彼が作品の前に立っていたのだ。
「ハヌル」という名前が珍しく、西東京第二に行った時、名前を覚えた。漢字で「天」と書いて、ハヌルと読ませているようだ。
東京中高の中学生も一人、作品を説明していたが、三年生だ。最年少だというのに、物おじせず、身振り手振りも大きく、校内説明の時より堂々として頼もしく見えた。


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私・「美術部があるの? あとの二人は?」
ハヌル・「美術部、あります。二人はバスケ部です」
バスケ部の二人は時折、西東京第一のバスケットボール部と一緒に練習をしたり、試合に出たり、しているとのことだ。
私・「一人では…」
ハヌル・「広い美術室を独り占めです。校長先生も時々覗きに来てくれて…」
それなりに「一人美術部」をエンジョイしているようだ。校長の李先生が美術の先生だったことは、この時初めて知った。
 
*再整理して三月下旬に刊行する『朝鮮学校のある風景』42号に掲載します。