【2月15日・土曜日】江東区にある東京チェーイー(東京朝鮮第二初級学校)での「日朝教育交流の集い」へ。
授業参観あり、フィールドワークありの、児童の芸術公演ありの盛りだくさんのプログラムが組まれていました。
今年4月に落成した新校舎のお披露目も兼ねての開催です。
あいにくの雨天、それでも授業参観が始まるころには、体育館は参加者で埋まっていました。
全校児童は40人余り、図工の時間で新聞紙で靴を作っていた1年生は4人、国語では手鏡を見ながら発声練習をしていた2年生は3人でした。

民族打楽器でチャンダンのリズムをとっていた3年生は少し多いといっても10人足らず、高学年もみな少人数です。

授業が始まって10分もすると、、日本人教師や、都内のウリハッキョの先生だけではなく、昼食の支度をしに来ていたオモニたちも詰め掛けていました。都立高校の先生による「手話」の特別授業が行われた、6年生の教室は廊下までひとがあふれていました。昨年、東京チェーグーで行われた交流会では、長谷川先生が地球史における生物の共生について、細長い紙を用いて授業していました。

つづいて、現地のフィールドワークです。
早朝からのあいにくの雨も上がり、豊洲駅から学校につながる朝凪橋を渡るとき、傘をさすことができなかったほどの強風もすっかりやんでいました。
「枝川部落」といわれていた学校周辺地域の朝鮮人居住の歴史は古く、1936年、東京オリンピックの開催決定に伴い、強制移住させられた土地です。1941年に東京市によって建てられた「10畳」と呼ばれる、共同炊事場、共同トイレの簡易住宅の面影の一部は、いまでも残っています。

「千人余りの同胞が住んでいたが、住所はすべて枝川町1の9だった。海抜ゼロメートル地帯なので、台風が来ると床上まで浸水した」、「そうした中で1946年に隣保館の中にできた『枝川朝鮮学校』は希望の光、拠り所だった」とのことです。それで、校門の左側の記念碑には「心の故郷」と刻まれたのでしょう
李校長は、「心の故郷」の字のブルーは、植民地時代、同胞が渡って来た玄界灘を、絵画の背景の黄色は、朝鮮の土地を表していると、説明していました。

昼食の後は児童の公演に引き続き、全体会です。
大勢の人に囲まれ、緊張したのは児童より、先生だったようです。
「ドキドキでした」と、話していた4年生に「楽しい国語」を教えていた先生も、いつもの笑顔を取り戻し舞台のマイクの上げ下げをしていました。
「帯グラフ」の線を引き間違えていた5年の算数の先生も、舞台の上で楽しそうに指揮していました。

昼食の準備をしているオモニ達の視線は、舞台に貼りついていました。

全体会では、教育会のソン副会長が新校舎建設までの運動につい報告。校舎の位置を決めるのに1年かかったことや、校舎の壁の色をめぐる行政側とのやりとりなど、校舎の耐震性、収益性、公益性を保つための苦心談に、会場からは幾度も拍手が送られていました。
「高校無償化」をめぐる状況と補助金問題についての長谷川先生の報告も、自信に満ちていました。
「38年間続いてきた交流は、朝鮮学校の先生たちと深い友情を育んでくれた」「『高校無償化』の問題や『地方自治体の補助金カット』の問題の解決が長引くほど、日本の民主主義や人権感覚に絶望感を抱くことも事実だが、厳しい取り組みを続ける中で新たな友を全国に生み出していることも事実である。」

帰りがけに厨房の隣の多目的ホールをのぞいたら、この日の昼食を準備するための作業内容が貼り出されていました。1班、2班共に「10:30 集合!」「13:30 修了!」―オモニたちの意気込みがみなぎっていました。
こうした支援に支えられてこの日も、スケジュールを無事こなし、最後に「日朝教育交流を推進するアピール」を万雷の拍手と共に採択することができました。 
