朝鮮学校のある風景-その六
七月は一日給食に少年団のキャンプ③
「統一評論」の連載に一部加筆
■W杯へは三九期卒業生の申技術部長も
キャンプ帰りの児童を迎えに行った後、翌々日から終業式をはさみ、三日続けて学校を訪れた。
授業はないとはいえ、少年団の反省会に大掃除、恒例の「民族の日」の行事に、全国大会をめざしてのサッカーとバスケットボールの練習と、児童たちも先生も相変わらず忙しい日々を送っていた。
いずれの日も三五度を超える猛暑日が続いたが、サッカー部の部活、低学年の「ポンドリサッカークラブ」や、オモニサッカー部の練習など、炎天下、熱風が吹く中でも、運動場では誰かがボールを追って、走り回っていた。

学校の隣の住宅建築現場の整理員は、「暑いのに子供たちは元気だ」と感心していたが、オモニたちの練習には、「朝鮮の人はサッカーが好き」との印象を強めたに違いない。
前回、アフリカでのワールドカップに、「私が知る限り」、チェーサム関係者が四人が行っていると書いたが、五人目に会った。「ポンドリサッカークラブ」を指導している申載南氏である。
在日本蹴球協会の技術部長を務める氏は、在日同胞応援団の引率者として南アフリカに行ったのだ。東京チェーサムを一九八六年に卒業した三九期生、共和国代表の安英学選手の五期先輩である。申氏のアボジ故申在燮氏はチェーサムで教壇に立ったことがある。
ポンドリの練習前に、話を聞いた。
応援団には安選手のオモニと兄(一九八八年卒の四一期生)が参加し、安選手のオモニと親しい豊島支部の女性同盟委員長の彼のオモニも一五人の応援団に加わった。
香港を経て、一七時間のフライト、渋滞とやっかいな手荷物検査、入場時の停電、応援席の確保など現地でのハプニングも重なり、三泊六日は、かなりの強行軍だったようだ。
それでも接戦を演じた対ブラジル戦を共和国の応援団四〇人と一緒に観戦し、翌日には共和国選手と交流することもできた。七時間の時差にもかかわらず、皆が元気に満足して戻ってきたと、語っていた。
顔に共和国の国旗のシールを貼って行ったので、ソウルから来た記者からも取材を受けたようだ。
ポンドリの練習が始まった。低学年の大多数が参加している。

練習は毎週木曜の午後の一時間半、この日は夏休み前の最後の練習だ。申技術部長ともう一人が指導に当たっていた。
FCコリアの練習でよく見かける選手である。「ソンセンニム、最後だから試合にしましょう」と、まとわりつかれていた。児童に冷水器の場所を聞いていたので、東京チェーサムの卒業生ではないようだ。
蹴球協会の技術部は、「在日同胞サッカーマンの年齢別(学校)チーム及び選手の育成を担当する」部署で、低学年を対象にした指導は、チェーサムだけではなく、いくつもの学校で行われている。
申技術部長によると、同協会が毎年八月に主催するチビッ子サッカー大会は、今年からヨーロッパで趨勢になっている八人制を導入することになった。「ボールにふれる機会を増やして、技術力のアップにもつながる」。本戦と育成大会が同時に行われるので、今後低学年のサッカー指導にも力が入ると、はりきっていた。

それにしても暑い日だった。それでも児童たちは夢中でボールを蹴っていた。それを目で追う申部長の表情は優しい。三歳になる息子と一緒にボールを追う日を思い浮かべていたのかもしれない。
■終業式-長くならざるを得ない校長の報告
終業式の前日に催された「民族の日」とは、一学期末に開かれる全校生参加による恒例の行事で、今回はウリマルによる朗読が中心だった。
私が行った時は、五年生が出演する番で、全員が前に立っていた。教科書の朗読とウリマルによるやりとり、そして「キム・ソンダル」の物語が語られていた。声が届かず、聞き取りづらかったが、下級生も一生懸命拍手していた。上級生たちはときおり大きな声をだして笑っている。
演じる児童たちの表情が明るく、息もぴったり合っていた。

楽しく、のびのびと学ぶことを何よりも大切にしている先生たちの思いがこもった舞台だった。それだけに最初から最後まで観るることができず、残念な思いが残った。
終業式は、三階の高学年の二つの教室の間の壁を取り払った講堂で催された。少し早めに着くと、低学年の児童が教室の隣の廊下に、各自の椅子を持って待機していた。
「アンニョンハシムニカ」
皆が大きな声で挨拶する。ウリマルだ。椅子を持って三階に上がりながらの一年生の元気いっぱいの挨拶に、入学後三カ月間の成長がうかがえた。
いつものように「愛校歌」と「私たちの朝鮮学校大好き」の歌で式は始まる。
「みなさん、姿勢を正して参加しましょう」、「拍手は大きくしましょう」。少年団の男女二人の団委員が注意を促す。
校長の報告。「いつも話が長くなると言われるが…」との前置きがあったが、この日も正直長かった。
入学式から三カ月を振りかえり、朝鮮の文字をきれいに書けるようになった一年生から、一〇二冊の本を読んだという六年生まで、一人ひとりの名前をあげて模範を称え、夏休みの過ごし方まで話す。それに、ウリハッキョらしく「われわれを取り巻く緊迫した情勢」の話まで及ぶ。報告が長くならざるをえないようだ。
それでも、話が全部わかるはずのない一年生も静かに聞いている。五、六年生もそうだ。みなが集中している。弟や妹、兄姉、そして友だちの名が出たのであろう、その度に少しざわめく。自分の名が出るとうつむく子、思わず笑みがこぼれる子、いつ自分の名前がでるか、緊張して耳をそばだてている子もいた。
学年代表に通信簿が渡され解散。三年生の代表だけが女子だった。

式が終わると、まず低学年が椅子を持って、階段を下りていく。高学年の二つのクラスは、廊下に並べた机を教室に運び入れる。皆、慣れたものだ。
各教室では、一学期最後のホームルームだ。通信簿の伝達と夏休みの学習帳の説明がつづいていた。
× ×
この何年間、東京チェーサムは、学校と学父母、地域同胞一丸になっての努力が実を結び、児童数を着実に増やしている。
児童数からすれば、東京ではチェーイル(荒川区にある東京朝鮮第一初中級学校)に次いで二番目、短設校としては一番大きな学校になった。
学区は板橋区と豊島区、練馬区、北区、埼玉県の一部を含む、総連の組織で言えば、五つの支部を網羅している。それは「利点」であると同時に、いつでも「弱点」にもなりうる危険性をはらんでいる。
北区は、チェーイルの学区であり、練馬区はチェーグーの学区でもある。交通の便がよくなり、学区にこだわらない学父母も多い。子供のためには引っ越しもいとわない。学校選びの基準は、あくまでも学校、先生の評判である。
それに、困難な経済状況下、過度な経済的負担は、ウリハッキョへの就学を遠ざける要因のひとつになっているという現実も無視することはできない。
こうした中、金校長が常日頃強調するのは「安心、慢心してはいけない」ということだ。ウリマルを軸にした教育の質の向上へのこだわりは強い。この夏、学校運営が厳しいにもかかわらず、五年担当の黄先生を平壌での国語の長期講習に送り出すのも、その一環のようである。
(ウリハッキョを記録する会・一粒出版www4.ocn.ne.jp/~uil/p.htm)
■シリーズ・朝鮮学校の歩み
Ⅰ「私たちの東京朝鮮第三初級学校物語」(一九四五~六七年・証言編)
Ⅱ「朝鮮学校は民族、統一、共同体の価値を持つ宝庫」(ソウル発インターネット新聞の特集)
Ⅲ「復刻版・東京朝鮮中高草創期十年史」
Ⅳ~Ⅵ「ぼくらの旗-君はあの頃(都立)の東京朝高生を知っているか?」(三部作)
Ⅶ「私の中の一九四八年朝鮮人学校教育事件-アメリカ占領軍に抗して」
Ⅷ「続・私たちの東京朝鮮第三初級学校物語」(一九四五~二〇〇九年・体験記録編)
連載中の月刊「統一評論」 660円
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在日のこれまでと今を本に一粒(한알)出版
ウリハッキョを記録する会
東京大空襲・朝鮮人罹災を記録する会
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