65周年迎え日本の各紙の特集記事に「朝鮮人罹災者」も-2 | トンポ・トンネ 日々イモジョモ

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■「朝日新聞」2010年03月08日・朝刊

◆連れてこられて記録もないままですか

 赤いランドセルを買ってきてあげるから――。
 65年前、アボジ(父親)はそう言って日本に渡り、帰らぬ人となった。

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 昨年2月27日、韓国に住む70代の女性は、羽田空港に降り立った。東京大空襲で父親を失ったもう一人の遺族の男性と一緒だった。

 空襲の朝鮮人犠牲者を調べている「東京朝鮮人強制連行真相調査団」に招かれた。

 翌日予定されていた追悼会を前に、江東区の東京大空襲・戦災資料センターを訪ねた。3階の朝鮮人犠牲者コーナーで、女性は聞いた。「アボジの名前、出ていますか」

 旧海軍に徴用されて死亡した慶尚南・北道出身者の名簿から、死亡年月日の欄が「昭和20・3・10」となっている約120人分を抜き出した名簿が展示されていた。全員が旧海軍施設本部芝浦補給部に軍属として配属され、深川区(現江東区)の宿舎で大空襲の日に亡くなっていた。

 この宿舎とみられる施設では他にも多くの朝鮮人徴用工がいたが、外から鍵をかけられて「逃げようにも逃げ出せず、結局無理死にさせられてしまった」(一粒出版「東京大空襲・朝鮮人罹災の記録」)との証言もある。

 調査団の朝鮮側事務局長、李一満さん(65)が名簿を見た。氏は日本の通名になっていたが、下の名前と妻の名前が一致している人が載っていた。間違いなかった。

 64年ぶりの父との「対面」。もう1人の遺族の父の名前も載っていた。名簿の前でともに号泣した。女性は帰国後、「やっとアボジに会えた」と伝えた。

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 各府県警に置かれた当時の特別高等課資料によると、1945年に東京にいた朝鮮人は約9万7千人。うち4万1千人余りが空襲で被災したとされるが、死者の数は不明だ。下町では多くの朝鮮人が工場で働かされていたことから、李さんは「1万人を軽く超えるのでは」とみる。

 調査団が朝鮮人犠牲者を調べ始めたのは05年。空襲犠牲者が眠る墨田区の東京都慰霊堂に、遺骨の名簿の原本や骨壺があるのを知ってからだ。当時、名前が判明しながら遺族がわからない人が4018人。ここから朝鮮人とみられる50人を見つけた。大半は日本風の名前にする「創氏改名」をしていたが、朝鮮人が多く使った通名や朝鮮風の名前から探した。

 50人のうち、遺骨が引き取られていたのは1人。あとの49人は本籍地も全員不明。30人が創氏改名されていた。日本に渡る船のなかで通名にしたケースもあり、たとえ遺族が見つかっても本人だと確認するのは難しい。

 「本人の存在そのものを歴史のなかから抹殺したのが創氏改名だ。それが今も調査の足かせになっている」と調査団の日本側代表西沢清さん(71)は語る。

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 被災者は戦後、朝鮮半島に帰った人も多い。証言者を探すのに苦労していた2年前、城東区(現江東区)で被災したという宋正浩さん(30年生まれ)が北朝鮮で名乗り出たという連絡が入った。調査団は昨年10月、聞き取りに向かう予定だった。だが、直前の9月、「脳出血で死去した」と伝えられた。

 調査団の朝鮮側事務局長、李さんは日本がすべての名簿類を公開すべきだと訴える。「誰がどういう状況で連行され、どのように死んでいったか。それを明らかにしなければ遺族は浮かばれません」(大塚晶)

http://mytown.asahi.com/tokyo/news.php?k_id=13000621003080001



*東京大空襲・朝鮮人罹災の記録」目次など詳細は
http://www4.ocn.ne.jp/~uil/p.htm

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