

私にとって平壌祭典といえば、イム・スギョンである。当時「ウ・イル」のペンネームで書いた、「統一の花 イム・スギョン リポート」は、ゆうに60万字を越えた。それから20年である。
早速、「ヤフーコリア」で「イム・スギョン」を検索したところ、最新のニュースに添付されていたのが、上記の二枚の写真である。
一枚は祭典当時の「統一の花」の姿、もう一枚は40歳を迎えた彼女である。こんなに目が細かったっけ? 率直な感想である。
最新ニュースとは、5月14日付の「ハンギョレ」。創刊20周年の記念企画「世の中を変えた20年、その人は今」の中で、次のようなタイトルで、彼女を取り上げている。
「『統一の花』オーストリアで平和、人権を勉強しています」
息子失った後、海印寺(ヘインサ)に1年留まり…
「40代には私たちのための人生を生きたい」。
平壌祭典から来年は早20年、あの「熱い夏」を実体験した世代も、すでに40台以上、そのことをまったく知らない若者が、いまや明日の在日を担うべき世代になろうとしている。
少し長いが、記事の全容を紹介する。
「100万学徒の皆さん、全大協が平壌(ピョンヤン)に到着しました」
1989年6月30日、平壌(ピョンヤン)順安(スナン)空港に第一歩を記し叫んだ、韓国外国語大4学年イム・スギョンさん(当時20歳)の第一声は、南と北、同時に大きい衝撃を与えた。
彼女は当時、平壌で催された第13回世界青年学生祝典のプリマドンナになり、8月15日軍事境界線を徒歩で帰還するまで、一つのドラマを演出し、「統一の花」と呼ばれることになる。
イムさんと「ハンギョレ」の縁は、彼女が禁断の障壁を越えた1989年夏から始まった。帰還後、懲役5年を宣告され、3年4ヶ月ぶりにクリスマス特赦で出所した翌年の1993年、イムさんはハンギョレ新聞社に毎日出勤し、10日間続けて訪北記を連載したのだ。
彼女は、「親北・アカという言葉が心底から嫌いだったが、すべてのマスコミが私をアカと罵倒した時期から今日までハンギョレは、いつも私の確固とした後援者だった」と語る。
出所した後、団体の幹部も引き受け、自分なりに一生懸命生きたが、「一般の学生」から突然一つの「象徴」になってしまった立場が、他人の服を着たように不便だった。それで勉強をした。西江(ソガン)大言論大学院をはじめ、放送通信大(法学)、米国コーネル大東アジア研究所(人権学)を経て、韓国外大言論大学院で博士課程も修了した。
独りで育てていた小学3年の息子を事故で失った2005年には、博士論文を準備しながら、放送委員会南北交流委員会推進委員、K-TVの統一プログラムをすすめ、学校の講義と、「寝る間もなく」忙しかった。そうするうちにあるとき、全てのことから手を引いた。縁があった慶南陜川(ハプチョン)の海印寺(ヘインサ)に逃げるように訪ねて行き、そこに1年間留まった。
そこで様々な人々と出会った。以前に出会ったのは、主に団体、民衆だったが、「あんなにも、多くの平凡な彼らと心を開いて会ったことは、その時が初めてだった」と、イムさんは振り返る。イムさんは「自分だけが大変で、痛ましいと思っていたが、彼らに会って、自分の主張をくり広げるより、他人の話を聞く方法を学べた」と語る。
その後、外国をかけめぐり、2007年終盤に学校に戻ったが、博士論文に手をつけることはできなかった。子を失った母の傷が彼女をそうさせなかった。今年1月に再びオーストリアでふらりと出かけ、最近一時帰国した。ここでブルンジ、シエラリオネなどの名前すらなじみがうすいアフリカとヨーロッパ、アメリカなどの地から来た35ヶ国の学生たちと一緒に食事の仕度をし、平和と人権、国際関係などを学んでいる。
イムさんは「30代には、自分の個人的な一生を送ってみようともがいたが、40代には私たちのための公的な人生を生きたい」と話した。
北韓に対する彼女の最近の考えはどうだろうか。
「20余年前に受けた彼らの真心に充ちた歓待と統一への熱望は私の深いところに残っています。彼らが苦労して暮らすというニュースに接する度に心が痛み、理念を離れ、平和を成し遂げ、分断を克服することに役立ちたいです。」
平壌祭典、イム・スギョン-1989年のあの夏、当時誰もが覚えたあの興奮と衝撃、統一への吹き出るような熱い思いは、なんだったのだろう。
講演会でも話されたが、誰もが「シミとり」に気軽にソウルに行ってしまう、今日の状況の中で、在日同胞にとって統一とは、統一運動での在日が果たすべき役割とは? 「平壌祭典」20周年を機に、真摯に考えてみようと思う。IK