【07年5月20日・日曜日】いよいよ「パッチギ」の第二弾が封切された。
4月の最終日曜日、「本」を紹介に行った、平和公園での板橋の集いで、焼肉をつっつきながら話題になったのは「パッチギ」だ。
前作の舞台は京都、はでな立ち回りに話が及んだが、同じ七輪を囲んだ後輩のCは、東京朝高ではあんなもんじゃなかったと一言。私が通っていた時も確かにあんなものじゃなかった。
喧嘩による入院沙汰は日常茶飯事。「激戦地」は新宿、渋谷だった。相手は、○○商業、K大やNの応援団や空手部だ。
ズバリ「朝高を潰す」と銘打った組織がいくつもあって、集団殴打と仕返しの日々である。当時は、詰襟の学生服だったが、その金ボタンや帽子の記章などが奪われ、それをつけて「わるさ」をするという「事件」も続発し、文字通り命がけの登下校だった。
今思えば、1960年代は「朝鮮人は出て行け」が日本政府の「国策」のような時代だった。日本社会に充満していた閉塞感のようなものが、朝鮮人にぶつけられたのであろう。朝鮮人への「攻撃」が、そのはけ口になっていたのである。一方、朝鮮人にとって進学、就職の壁は余りにも厚く、日常生活にはいつも差別がつきまとっていた。すべての制度から閉め出されていた在日朝鮮人にとって、抵抗の手段は「拳」しかなかったのだ。
Cが言うように、「パッチギ」なんか生ぬるいという現実がそこにあったのである。
そんなことあんなこと話していたら、いつか「私たちの東京朝高物語」にも手をつけたいと思ってしまった。