12月になった。
N響定演の12月といえは、このところはずっとシャルル・デュトワが指揮する、それは華やかで特別なものだった。
それが…
皆さまご存知のように、デュトワは #MeToo でのセクハラ告発により、N響定演から姿を消してしまった。
私は勿論セクハラは許せない。
でも、一連の流れを見るにつけて、過激な#MeToo運動には弊害も大きいと感じるし、まるで現代の魔女狩りのようで、不快感の方が勝ってしまった。
何度も言うが、セクハラは容認できない。
しかし過去に遡って、相手の人格や人生の功績、才能まで全否定し、息の根を止めるような「報復」はどうなのだろう?
被害者からしたら「自分の人生をめちゃくちゃにされた」から、それ相応の報いを…ということかもしれないが、あまりに行き過ぎてやしないだろうか?
特にデュトワに関しては、強くそれを思う。
だいたい最近のアメリカは、本当におかしい。
ポリティカル・コレクトネスだか何だか知らないけれど、つい先日の公開初日に観に行ったディズニー映画「くるみ割り人形」だって、それは酷いものだった。
勿論、何度でも念を押すけれど、私は人種差別は反対だ。
しかし、ものには適材適所ってものがある。
白人に似合うもの似合わないもの、東洋人に似合うもの似合わないもの、黒人に似合うもの似合わないもの、それを普通に言えてこその、本当の「差別のない社会」ではなかろうか?
映画「くるみ割り人形」では、まずドロッセルマイヤーが黒人俳優で「え?」となり、肝心のくるみ割り人形も黒人なら、金平糖の精を踊るプリマバレリーナも黒人だった。
時代設定が19世紀なのに…である。
違和感なんてものじゃない。
バレエダンサーのミスティー・コープランド (←ABTのプリンシパル)にしたって、そりゃ素晴らしいダンサーだとは思うけれど、もし彼女が黒人でなければプリンシパルになっていたのかどうか?と思う実力だと感じるし、ましてや「くるみ割り人形」の主役を踊る器とは到底思えない。
なんでこんなことになってるんだろうか?
#MeToo にしても、ポリコレにしても、差別反対と言いながら、別の差別を生み出してはいないか?
余計な話が長くなってしまった…
要するに私が言いたいのは、デュトワには、早くN響定演に復帰して欲しい!!
そういうことなのだ。
芸術の世界に、#MeTooやらポリコレやらを持ち込むな!!と、言いたいのだ。
音楽家は音楽で評価されるべき。
それが衰え汚れていたならば、そこで聴衆は離れるわけだし、我々は道徳を基準に音楽を判断してはいないのだ!
さて…
初冬の代々木公園を抜けて、NHKホールへ。
デュトワのいない12月のN響定演を、まず支えて下さった指揮者は、私も大好きなヴェデルニコフだった。
第1900回 定期公演 Aプログラム
2018年12月2日(日)15:00〜
NHKホール
指揮:アレクサンドル・ヴェデルニコフ
ピアノ:アンドレイ・コロベイニコフ
スヴィリドフ/組曲「吹雪」―プーシキン原作の映画から
スクリャービン/ピアノ協奏曲 嬰ヘ短調 作品20
グラズノフ/交響曲 第7番 ヘ長調 作品77「田園」
ヴェデルニコフは、実に素晴らしい指揮者だと毎回思う。
今回も、全ロシアもののプログラムを、ものすごく楽しませてもらった。
最初のスヴィリドフの組曲は、ところどころにショスタコーヴィチの映画音楽も思い出される、ちょっとダサくて、軽くて、狙ったようにワザとらしい、つまり…とっても魅力的な作品だった。
N響ソリスト陣の独奏も胸に沁みるものがあり、ジーンと目頭にくること数回。
次のピアノ協奏曲も、スクリャービンの繊細な美しさを際立たせたアンドレイ・コロベイニコフのピアノが見事で、アンコールに至るまでうっとり夢心地にさせてもらった。
後半のグラズノフ 交響曲第7番「田園」も、こんな素敵な曲があったのね…と教えられる貴重な時間だった。
グラズノフのことは、素晴らしいバレエ音楽の作曲家という認識でいたけれど、どうやらもっと広い視野でとらえ直さないといけない私だ。
残念ながら客席は、いつもデュトワが来ていた時のように満席ではなく、若干空席が目立っていたけれど、ホールに居合わせた人の心には、もれなく12月の華やぎが満たされたに違いないコンサートだった。
ヴェデルニコフさん、またぜひ、何度でもN響を振りに来て下さいませ!!
ホールの外に出ると、恒例の真っ青な電飾。
いよいよ師走だ。