②
ねぇジン。
どうしてあの日、私に声をかけてくれたの?
やるせない気持ちが浮き沈みを繰り返し、自分のため息で自分を包み込んでしまっているようだ。
あれからおよそ3週間。
全く晴れない心に、自分でも嫌気が差す。
やっぱり婚約破棄というのは想像を遥かに越えてダメージが大きい。
想像したこともなかったけど。
恋愛経験や、いわゆる恋愛偏差値というものはこういう場合関係ないのかもしれない。
経験があってもなくても、受けたダメージをどう消化するか、どう風化させるか。
いや、させてはいけないのか...
くだらないと分かっていても、堂々巡りする考えをやめられないから余計にため息が増える。
東条先輩に「気にせず休め」とは言われたものの、気になることが色々出てくる。
引き継いだ研究、私の結婚を祝ってくれた同僚たち。
果たしてこれまでと同じように研究所へ戻れるのだろうか。
腫れ物扱いされるのは嫌だな。
家族はと言えば、
「そんなこともあるんだねぇ」
と全くの平常運転でこちらが拍子抜けだった。
両家の顔合わせは私が帰国してからの予定だったから、両親からすれば、
「何かが起こる前で良かった」
と。
何かって?
もう結構私の身には色々起こってるんだけどな。
でも、そういうあっさり?放任?な両親で助かった部分もある。
あぁ、本当考えても答えが出るわけでもなく、無駄な時間が過ぎていくだけ。
くだらない...
実家の近くにある土手に座り、目の前の川に目をやる。
あれから毎日この土手に来ているが、今日は特に晴れて空気が柔らかく、澄んでいる。
太陽の光を反射して水面がキラキラと輝く。
目を開けていられないほどまぶしくて、堅く閉じたまぶたから涙が出そうだ。
このまま、あのバカな男と出会う前に戻れたらな...
「さくら、きれいです」
ん...?誰?
「さくら、すごくさいてます」
あ、桜ね。
今日明日あたり満開ですかねー...
「ってだれっ...」
振り返ると長過ぎる脚が目に入り、そのまま見上げると信じられないくらいにきれいな顔の男の人が立っていた。
しかも私を見て微笑んでいる...?
「えーっと...誰かとお間違いですか?」
あたりを見回してみるけど、私とその人しかいない。
「あっ...いえ、さくら、きれいでしたので」
あ。この人もしかして。
「間違っていたらごめんなさい。韓国からお越しですか?」
イントネーションにクセがなく気付かなかった。
10年近く韓国にいた私だから分かったってくらいだ。
「あ、はい!りょこうできました」
日本語もきれいで、顔もきれいなんだな...
『私、実は韓国に10年ほど滞在してまして。今は帰省中なんです』
きれいな顔が一気に綻ぶ。
『わぁ!韓国語話せるんですね!嬉しいです!一人で日本に来たんです。日本語の勉強も少ししかできていなくて』
一気に早口で話すテンションに少し面食らいながら、それでもきれいな顔からとにかく目が離せない。
こんな人見たことない。
ハッキリした目鼻立ち、小さい顔、脚が長くてスタイル抜群。
そして...若いなぁ。
『日本へようこそ。観光旅行ですか?』
『あ、いえ...観光というか。ちょっとリフレッシュという言葉では軽過ぎるのかな』
さっきと打って変わって影を落とした笑顔にも惹かれる。
『すみません、立ち入ったことをうかがってしまって。桜はまだしばらく楽しめますので、どうぞ日本でゆっくりしていってくださいね』
きれいな顔をこれ以上まじまじと拝むわけにはいかない。
理由は分からないけど一人で海外旅行なんて、何かよほどのことがあったんだろうな。
私と同じような修羅場くぐり抜けてきたとか?
すぐ退散しよう、と思って勢いよく立ち上がると、ふらりと立ちくらみした。
眩しい光がまだまぶたに残っていた。
『あぶないっ』
そんな声を聞いたと同時に体にふわっとした感覚を覚えた。
後ろに倒れそうになった私を彼が支えてくれていたのだ。
驚きと恥ずかしさと情けなさと色んな感情が入り混じり、彼から離れようとした。
『ごめんなさい、ごめんなさい』
彼の手からすり抜けようとしたが、彼は更に強い力で私の肩を支えてくれた。
『少し顔色が悪いように思います。座って休みましょう』
私の体を支えながらその場にゆっくり座らせてくれた。
『本当ごめんなさい。せっかくの旅行なのに、こんなおばさんの介抱させちゃって。体も重かったでしょ』
あまり自虐的になるのは好みではないが、こんなきれいな顔の青年の前では、この程度でも足りないくらいだ。
『そんな!倒れそうになった時、軽過ぎて消えてしまうんじゃないかと思いましたよ!今もちゃんと目の前にいて良かった』
うーん、褒めが過ぎるな。
でも...どうせ今この瞬間だけのことだし、こんなきれいな若者にお世辞を言われるなんてこの先もないだろうから、ありがたく胸にしまっておこう。
『もう一人で平気ですよ、ありがとう。さぁ、旅行の続きを楽しんで。思い出をたくさん作って帰ってくださいね』
これでさよならだ。
ただ、さよなら、と言葉にすると、この数分間の出来事がふわっと春風に乗って消え入ってしまいそうで、何故だか名残惜しかった。
『...あの』
『あっ、もしかして次に行きたい場所までの道が分からないとかですか?休むのに付き合ってもらったお礼にご案内します。どこですか?』
『いや、その...』
まずい。
こんなおばさんを介抱させておいて道案内がお礼とはまずかった。
次の目的地までのタクシー代くらいでいいだろうか...
『もしお礼とおっしゃってくれるなら』
お願い、タクシー代で勘弁してくれ...!
『お茶でもいいですかっっ』
お茶...
ペットボトルのお茶が欲しいの?
あ。滞在中に毎日飲むお茶1ダースとか?
安く済みそうだな...
そういや東条先輩にランチ何日奢ればいいんだろ...
と、くだらないことを一人で巡らせていると驚くことに、
「おちゃをいっしょにのみたいです。だめですか?」
と日本語で話してくれた。
ハッと我に帰り、青年を見ると真剣な表情の上に赤みが帯びていた。
私何やってんの!
彼はちゃんと話してくれてるのに余計なことばっかり考えて!
「あっ...お茶...お茶ね!はいはい、飲みましょ飲みましょ」
この辺り自販機あった?
コンビニは?
キョロキョロ見回す私の手を優しく握って彼は言った。
『そこにカフェあります。だめですか?』
そっ...そうだよねーー!!
なんでお礼がペットボトルなのよ、本当ばかっっ!!
っていうか手!手!!
今度は私の顔が真っ赤に染め上げられた。
『かっ...カフェね!全然!全然いいですよ!...あ、でも...』
彼の大きくてきれいな手から逃げ出し、冷静になる。
こんなおばさんとカフェに入るの恥ずかしくないのかな。
『もしカフェでお茶したいなら、お金は払いますからお一人でゆっくりされてはどうですか?さすがに私と2人じゃ周りの目が気になると思うし...』
こんなこと言ってる自分が相当惨め。
だけど、こんな青年をカフェに連れて行ってごらんよ。
私は若い女子たちの強烈な視線を浴びてお茶を飲み込めないよ...
『僕と2人はいやですか?』
そんなわけないじゃんっ!!
「そんなわけないっ....」
思わず心の声が口をついて出てしまった。
『そんなことないですよ。あなたがせっかく日本に来てるのにこんなおばさんとお茶するの嫌じゃないのかなって』
苦々しい笑顔を浮かべるので精一杯。
『いやじゃないです。それにあなたはおばさんじゃないです。お礼だと言ったじゃないですか。僕と一緒にお茶しましょう』
...ちょっと怒ってる?
私がグズグズ言ってるからだろうな。
潔くお茶飲んでさっさと立ち去ればいい。
そうしよう。
『分かりました、ごめんなさい。あなたみたいに若い人とお茶とかしたことないから、どうすればいいか分からなかったんです。お礼ですもんね、お茶をご馳走します』
彼の笑顔はなんて華やかなんだろう。
『ありがとうございます!さぁ、行きましょう!』
歩き出す青年の背中を見て、あまりにも美しく、同時に儚げな印象を持った。
『そうだ、話してて思ったんですが』
話しながら振り向く彼に視線を合わせる。
『韓国語とてもお上手ですね。イントネーションがきれいだ。韓国語もきれいで顔もきれいで。素敵です』
彼のこの言葉が、この先何があっても生きていける、そう思わせてくれた。