加治丘陵に生きて……。 | よろぼい日記

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杖ついてやっとこさ歩いてバタンキューの毎日。食べれない。喋れない。わからない。死にそう。どん詰まりのあがき…………か。それとも死に欲かな?

 

加治丘陵が好きになったのは、生前のくん太(メス犬)がそこが好きだったからだ。はしゃぎまわって茂みを駆けまわり、いつも、うれしくってたまらないというふうにワンワンワンと吠えつづける。

 

それで常に加治丘陵へ出かけたものだが、3・11のプルーンが来て以来、私は迷わず、山登りも入間川下りも散歩も控えた。

 

それが正しかった。

 

1年、2年、3年……と過ぎていくうちに、奇形の曼珠沙華が咲き乱れ、蚊や蛇がいなくなり、野良猫の群れも消えてなくなり、やがて親しくしていた河川敷ホームレスたちが一人また一人と死んでいくのをこの目でしかと見たからである。

 

あれから10年が過ぎ、そこらに舞い落ちた放射性プルームが吹き払われ、あるいは土中に潜り込み、大部分は入間川の本流に流れ込んだとみて、私は2年ほど前から、連れて行くくん太とも死別していたが、一人で、脳梗塞のリハビリを目的に加治丘陵へ通い始めた。

 

1年ほど通ってみてわかったが、脳梗塞の半身不随は直らないばかりか、日に日に、ほんのわずかずつ、悪くなっているという事実だ。

 

そういうとき、渡米の出入国審査からワクチン証明証がいらなくなった。それで、何年も会っていない娘の孫娘に会いたくなった。体調はかんばしくなかったが、飛行機の中でも、デンバーに着いてからも、ほとんど横になって過ごしていたが、その日、突然救急病院に運ばれると、信じられないことだがコロナだ。

 

私ははじめっからコロナもコロナワクチンも薬の類いもどうでもよかったが、デンバーでの医療費だけは、経験からとんでもない請求が来ると分かっていたので、一日でも早く退院しなければとんでもないことになると分かっていた。

 

 

それで、あれこれ口からでまかせをいい募って、奇跡的に退院に漕ぎつけ、ふらつきながらも成田に、それからボロ家にたどり着いて、ただじっとしているだけの、ふがいない自宅療養にすがりついた。

 

コロナは考えていた以上に油断のならない、おっかない伝染病だ。

 

安静を永遠に続けても何だか直りそうもなかった。過去最低体重43.5キロまで痩せさらばえ、頬はこけ落ち、皮膚はボロボロ、まるで骨川筋エモンだ。

 

それで、ある日、ふと思いついて、加治丘陵へ行くと、何と、危険極まりなかった枯れナラが全部切り倒されていて、どこもかしこもすっかり様変わりしていた。

 

 

(北10で。ここから北11、北13,14にかけて林立していた枯れナラがすべて伐採されている。)

 

 

風の日は枯れナラの落下で危なかったが、もう、そんな心配はない。私は、朝起きると、それが日課のように休み休み、杖を突きつつ、ゆっくり上り下りした。

 

そんなある日、思いがけない運命が来た。

 

その日は、2ヶ月に一度の定期診察の日なので、加治丘陵に行って、その足で仏子駅から稲荷山公園に行き、病院行きのバスを待っていると、何と、うちのかぁちゃんが熱い炎熱の中をとことこやって来た。

 

「先生にいろいろ聞きたいことがあるの」と。

 

ふん。勝手にさらせ。

わかっていた。

脳神経外科として名の売れた扇一先生に何とか頼んでアルコールをやめさせようという魂胆だ。

この世で一番難しいことは、大酒飲みが酒をやめることだ。私も何度禁酒を誓っても元の木阿弥、またちびちび、いつの間にかすっかり酔い痴れるまで飲んでいた。脳梗塞を患ってからは1年半あまり、禁酒したものだが、いい気持ちになって死ねればそれで本望だと、言い訳しつつ飲み続け、翌日酔いが覚めると、やはり、酒をやめるしかないな、と茫然自失して考える。

 

かぁちゃんは扇一先生に「お酒をやめるようにいってください」と必死で訴えた。

 

「やめなさい、とはいえないですね。アルコールも、適量なら体にいいこともあるからです」

 

「うちの人は昼間から飲み続け、夜前後不覚になって昏倒するまで飲んでいるのです」

 

「うむ、それなら間違いなくアルコール依存症ですね。だったら、すっかりやめなさい!」

 

渡りに船とはそのことだ。

今までかかった医者の中で一番信頼している扇一先生のその一言で、私は20歳の頃から延々と飲み続けたアルコールをピタリとやめた。

 

――まだやめてから8日目なので、幻覚に襲われたり、眠れなかったり、寝汗をびっしょりかいたりと……様々な禁断症状が続いているが、人生の最後が何かとてもいい方向に向いてきた日々をそれとなく感じている。

 

不思議なものだ。

 

今まで80歳か、あわよくば82歳まで生き延びようなどと四苦八苦していたが、なぜか、あと10年、90歳まで生きようと思うようになっていた。

認知症だったが92歳まで生き延びた母の血が私の中にも流れているのだから、と。