俺の芸人物語41「グー」 | うっほ菅原のごりら目線

俺の芸人物語41「グー」


 同棲を解消し羽根木に引っ越す前、乗っていた中型バイクXLR200がうんともすんとも動かなくなってしまった。
初のヤフオクで安く手に入れたのだが、近くのバイク屋に見てもらうと「バイク2つを1つにしてますね〜。こんなバイクの作り方無いですよ。無茶苦茶ですよ。」
駆動系や精密機器類はトラブルが付き物だと諦めた。
安かろうがそのまま悪かろうだった。
一年も乗らずに廃車になってしまったので、バイク無しで生活していたが先輩の勧めで
「都内でいつお誘いがかかってもすぐ行けて終電気にせず動ける様に」
と言われていたので、安い中古の赤い小型バイクを購入した。
原付だと制限速度30キロで二段階右折が有るのでいちいち面倒だが、125CCまでの小型は50キロ2人乗り二段階右折無しでスムーズになる。
維持費の税金も数百円しか変わらないのが大きい。

要領良く「貧乏芸人生活」が送れる大事な道具の1つだった。

そして、ガラパゴス携帯からiPhone3に換えた。

先輩達の会話についていけるように、当時最新のiPhoneにして使い慣れるまで不憫は多々あったが、最新の話題を取り入れどんどん吸収していった。

フットワークは軽い方だと思っていた。
しかし、都心から距離のある所に住んでいるとその移動時間数十分が勿体無いと感じ始めていた。

その分チャンスも逃してしまう気がしていた。

もともと風呂なし時代は明大前に住み新宿渋谷が電車で約10分に慣れていた為、移動だけ考えれば調布の片道約30分がもどかしかったのもある。新宿から最悪歩いても帰れる距離だったのも良かった。
仕事が忙しくなればなるほど住まいはどんどん都心に近づいて行くのが理想で、当時仕事は無く暇でも意識からいつ売れても良いようにスタンばって現実も追い付いてくるよう、理想と現実のギャップにもどかしさを感じつつ少ない収入を鑑みて物件探しは慎重になっていた。

周りの芸人に人気があったのは下北沢、中野や西武新宿線か、ちょっと背伸びして三茶付近で、学生街は比較的安くて良い物件が有ると認識していた。

風呂有りか無しかで1万以上違う。

しかし風呂無しに舞い戻る事は避け、少しだけ背伸びをして家賃を少し上げ、交通の便の良い所が杉並区羽根木のアパートだった。
この場合風呂無し6畳一間トイレ付きだったが、変わった物件でトイレにカーテン仕切りでシャワールームも付いていた。
家賃3万6千円で明大前駅徒歩15分。
風呂なし物件の値段でシャワー付き。1DUS。ユニットシャワー。体洗えるだけでありがたい。一人ならこれで充分だ。

ここから再スタート。

一人暮らしに戻って同棲がいかに良かったかを改めて思い知らされた。

俺はすっかりひ弱になっていた。

精神的な寂しさに押し潰されそうになっていたので無理やり埋める為、空いてる時間をお笑いとバイトにがむしゃらに当てるように意識し行動した。

改めて彼女に対しても感謝していたし、とにかく見直してもらえるように頑張ろうと思っていた。
彼女もそのタイミングで職場を変えキャリアアップを目指し新たな町に引越しして、新しい生活に必死だったと思う。

しかし離れて暮らし時間が過ぎれば過ぎるほど、心の距離は離れる一方だったかもしれない。

半年後、時間が合う時にご飯に行った。

お互いの近況報告や、よもやま話の流れでポロっと
「私のこの3年は何だったの。私には無駄な時間だったよ。」

何よりも重い一言。

「コンビで頑張ってるみたいだね。これからも陰ながら応援してるから、絶対私との時間無駄にさせないでね。」

そう言って、新しい財布を誕生日プレゼントとして渡してきたのだ。

もらうもの憚られたが、受け取る他なかった。

何から何まで行き届いた彼女の優しさと思いやりが溢れて俺の小さい器じゃ掬いきれなかった幸せが、手のひらから溢れ落ちていった。

失った事を後悔するよりも、後押ししてくれた事に感謝して前を向いて今やれる事を全力でやらないと、全てが本当の無駄に終わる。

家に帰って自分の情けなさに嗚咽するほど泣いた。

そんな時期の、仕事のオファーや先輩からの食事のお誘いは本当に嬉しかった。

誰かに必要とされている所に生きた心地を感じるからだった。
今までやってきた事が無駄じゃ無いことのささやかな証明が出来ていた気がしていた。

ありがたい事にジュニアさん達にも何度かお誘い頂けて、楽しい中でも色々失敗もして学び、改めてお笑いで結果を残す事への新しい夢をみて、自分の足りなさをどうやって埋めようか常に考えて行動出来るようになっていた。

どうやったら不快にさせないか、喜んでもらえるか。

触れ合わなければ絶対に分からなかった感覚。

「チハラトーク」も袖で見学させて頂き、全てを吸収しようと必死だった。
ライブ終わりで自分ではなかなか行けないようなグルメなお店や行きつけのお店に連れてって頂いたり、本当に普通ではありえない嬉しい事が続いた。

連れて行て頂いたお店は全て、忘れない様メモを取ったり電話帳登録しておく事も常識として覚えた。

ジュニアさんの誕生会をする時も、家の庭でバーベキューする時も声を掛けて頂き、その都度最高潮の緊張感を乗り越え、全力で楽しんだ。

一緒に過ごさせて頂ける時間で何かちょっとした事件が起きると、それをテレビでは爆笑トークに変えられているという現実を何度も何度も目の当たりにした。

独自の目線や話の構成や言葉選びのセンスは一長一短では到底真似できるものでは無かったけど、そこで感じれた事全ては財産だった。

若手芸人に対する愛情の深さは計り知れない。

その中でも常に何気なくしている話は、今までのどの会で聞く話よりも刺激的で、テレビで見るどんなトークよりもレベルの高い最高峰のもので、感動しっぱなしだった。
気をぬくと後輩という立場よりも前に、お客さんになってしまっている自分が居た。
一度お酒の場で出過ぎた真似をし空気を悪くしてしまったが、俺以上にその事に気遣いをさせてしまい後日までフォローして頂き、改めて懐と考えの深さを肌で感じて、後輩への接し方を学んだ。

「うっほお前ジャンケンでいうとグーみたいな顔してるなぁ。性格もグーやな。」とジャンケンに例えて分かりやすくイジって下さった。
人の性質はグーチョキパーに当てはまるといい、グーは単純、チョキは繊細、
「だからグーとチョキは基本的に合わんねん。」

自分を鏡で見て見るとその時期は「グー」にしか見えなくて、今まで生きてきて誰にも例えられたことのない単純な物ですごい面白い例えだなぁ自分には無かった発想だと感動していた。

次第に、お笑い芸人として世に出て仕事場でジュニアさんと御一緒させて頂けれる様になって、それでご飯に誘っていただける様に芸人として成長しなければという思いも芽生えて強くなってきていた。
それが密かなこの先の目標に変わった瞬間だった。

「弟子入り」はした事がなかったが芸人が惚れる芸人の世界は、弟子入りに近い感覚で兄さん達と接せれているのだろうか。そんな甘いものではないのだろうけど。

師匠を「第二の親」と思い堅気の世を捨てる考え方は今ではほぼ落語界にしか残っておらず、羨ましくもあり勇気の要る事で一線置かれて向こう側の事になってしまっていて、養成所が出来たお笑い芸人の世界では、勝手に一方的に憧れて、兄さん達に命懸けで食らいつける様に芸人道を邁進するという姿勢は、通じるものが少なからずあるはずであり、自分の心掛けが無ければいくらでも緩くなりもするし精進もできるものだと思ったのだ。

それはアルバイト先では経験できない時間の積み重ね方だ。

そこの世界にはそこでの作法が、それぞれ確実にあるからだ。

俺が目指している芸人道は今いる場所にある。

その期間は半年あっただろうか。

アルバイトでガッツリ生活を支えながらの芸人道には、直ぐに破綻をきたしてしまった。

先輩の誘いに行けなくて断る事が何度か続くと、その後は会には誘われなくなってしまっていた。
自ら参加したのに、断るという意味は信用を失うことに繋がるからだ。

自分の都合のいい時にしか参加出来ない奴に出番は何も回ってこない。

中本さんや網本やかんしさんにフォローしまくってもらって迷惑ばかりかけてしまった俺。
本当にありがたくて申し訳なかった。
チームワークの良さに何度も助けてもらった。
自分の良いところも悪いところも深く気付けて成長できた時期だった。

緊張し過ぎてたのが思わぬ形でバレて恥ずかしかった出来事がある。

晩御飯に誘って頂いた時、二軒目に向かう際、憧れてた「旧車」を運転させて頂いた。
今までにない程緊張したが、思ったよりスムーズに運転出来て(運転のバイトをしていた為)目的地に向かう途中、目一杯カッコつけて東京のど真ん中を憧れの先輩たちを載せながら運転する自分に少し酔いしれていた。
「なんで窓曇る?」「前見づらいな」
「うっほ!お前熱いな!!」
と言われ、気付けば余りに緊張し過ぎた結果汗ばみ、俺の周りの窓だけが全て白く曇っていた。

うっほ〜!!
暑いなら窓開けてもいいぞ!

絶対事故れないプレッシャー、車内空調にも気を使いすぎて、窓を開けていいものなのかクーラー付けて良いものなのか完全にテンパっていた。

二個持っていたハンドタオルも濡れ過ぎて使い物にならず、普段はドス黒いはずの顔が、その時ばかりは恥ずかしさでどうやら真っ赤っかになっていたようだ。

緊張してグーっと握っていた手も、肩の力抜いていつでもパーに開けるようになってたら良かったのに。

続く。