今年は永井荷風生誕140年 没後60年を記念して、色々な場所で展示会や勉強会があります。
永井荷風は江戸の匂いを残しながら、明治から昭和の東京下町の風情を描いた作家でした。
前回も載せましたが、今回も私が行った永井荷風展です。
宜しくお願いします。

森鴎外記念館

永井荷風は、明治12(1879)年に東京市小石川区(現・文京区春日)に生まれました。

森鴎外を文学上の師と仰ぎ、昭和34(1959)年に亡くなるまで尊敬し続けたそうです

鴎外もまた、自分より17歳若い荷風の実力を認め、明治43(1910)年には慶應義塾大学部文学科の教授に推薦し、荷風が主宰する雑誌「三田文学」の刊行を後押ししました。

「文学者にならうと思つたら大学などに入る必要はない。鴎外全集と辞書の言海とを毎日時間を決めて三四年繰返して読めばいゝと思つて居ります。」永井荷風

(荷風『鴎外全集を読む』、昭和11年)

 

展示会は 明治36(1903)年1月の荷風と鴎外の初対面から荷風の海外体験、「三田文学」での二人の共演、そして鴎外没後に荷風が鴎外作品を再読する時代、さらに晩年にかけて荷風が追った、鴎外の面影を紹介してあります

記念館が建つ場所は、鴎外の旧居「観潮楼」の跡地で、鴎外は1892(明治25)年から、亡くなる1922(大正11)年までここで過ごしました。

文京区千駄木駅の側にあります

観潮楼は、鴎外の没後しばらくは家族が暮らし、その後は借家となりました。

 

1937(昭和12)年に借家人の失火により母屋の大部分が焼失。

 

1945(昭和20)年には戦災により、胸像、銀杏の木、門の敷石、三人冗語の石以外はすべて焼失してしまいました。

 3人冗語の石

1949(昭和24年)、当時国立博物館館長だった高橋誠一郎が委員長となり、永井荷風、佐佐木信綱齋藤茂吉らを中心とした鴎外記念館準備会が発足し、建設費の寄附を募りました。

1951(昭和26)年からは、鴎外の三男類が大観音通り側の一角で書店「千朶書房(せんだしょぼう)」を営んでいました(1961(昭和36)年まで)

 1954(昭和29)年、鴎外の33回忌に胸像と「沙羅の木」の詩碑が設置されました

建物は団子坂に面して低く構え「薮下の道」につながる路地のような空間から入ります

 玄関の石畳は森家の玄関のもので昔のままです

この谷根千の散策路に続く路地からは、いにしえの「観潮楼」を偲ぶ庭の大銀杏や3人冗語の石を眺める事ができます。

今はスカイツリーが見えますが、昔はここから隅田川が見えたと云います
 

次は2019年度市川市文学ミュージアム企画展  

荷風生誕140年 没後60年を記念して
永井荷風と谷崎潤一郎展 あやしくって楽しい