蔦屋重三郎

蔦屋重三郎④蔦重 日本橋四部作

蔦唐丸自作 蔦唐丸(蔦屋重三郎)作 北尾重政画 寛政九年頃刊
「身体開帳略縁起」(寛政9年)の巻末にある絵
右下に「蔦唐丸自作」とあるのは、彼は蔦唐丸という名の狂歌師でもあった
作者払底につき自作至って拙き一作
蔦重自身がストーリーを手がけた2作目の黄表紙です。
巻末には新年の挨拶に訪れた裃姿の蔦重が描かれ、今年は執筆者がいないので、自らの作をお目にかけるという口上が記されています。

蔦屋重三郎が経営した書店「耕書堂」
葛飾北斎 画 「画本東都遊 3巻」
耕書堂ってもっと小さいのかと思ったら、東博の再現では大きかったですね
確かに大店。この絵は入口のほんの一部なんでしょう。

狂歌本『吉原大通会』
人気狂歌師が一堂に会したという設定の絵
狂歌師はみな変装しているが、蔦重(左下)だけは普通の着物姿
北尾重政『絵本吾妻抉』(寛政9年)
恵比寿に祈願する重三郎とその妻子。
これを見ると奥さんと子供が描かれていますが、子供がいたような。
さて蔦屋重三郎の重三郎の生い立ちは
父親は尾張から江戸へ出てきた丸山重助、母は江戸に住む広瀬津与とされている。
本名:丸山柯理⇒喜多川柯理(からまる)
その後離婚?
でも両親とも吉原で働いていたらしい?
その後重三郎は喜多川氏へ養子へ行くことになりますが、後年、日本橋通油町に進出した際に父母を迎え入れていることから良好な親子関係であったことが推察されます
母の津与は教育熱心であったとされ、太田南畝の碑文には母の教育により強い意志を持ったことが重三郎の成功の一因だったと記されている。
お母さんの事、ババアなんて言わない
駿河屋市右衛門
吉原の引手茶屋(客に女郎を紹介する案内所)“駿河屋”の主。
べらぼうでは両親に捨てられた?
幼い蔦重(横浜流星)を養子にして育てあげた。
ドラマでは義父になっていますね。

なお蔦屋重三郎の養父について、駿河屋市右衛門という名前は見えず、重三郎の養子先の喜多川氏(蔦屋)については、どのような商いを行っていたかは明らかではなく養父については吉原仲之町の茶屋「蔦屋利兵衛」や吉原江戸町二丁目の「蔦屋理右衛門」などの説が推察されているが、確証には至っていません。

「つたや三兄弟」
蔦重(横浜流星)唐丸(渡邉斗翔)次郎兵衛(中村蒼)

母親 津与
寛政4年(1792)10月26日に、津与は病で亡くなるのですが、母を慕う重三郎が南畝に一文の執筆を依頼したのです。
南畝は碑文のなかで、重三郎の堅固な意思は、母・津与の「遺教」によるものだろうと述べています。
7歳までしか一緒にいなかった母です
この「碑文」にも「広瀬氏は書肆耕書堂の母」であること。
母の「諱」(実名)が「津与」で「江戸人」であること、重三郎を生んでから家を出たことなどが記されています
ちなみに、重三郎は、母の墓碣銘は残していますが、父のものは残していません。
墓碣銘に「後移居油街、乃迎父母奉養」
(後、居を油街へ移す、乃ち父母を迎えて奉養す)とあるように、重三郎は、大人になってから、父母を日本橋通油町の新居に迎えています。
天明3年(1783)
二代目を継いだ番頭の勇助が養子になったとみられる。
この時代、必ずしも血縁関係が継ぐとは限りませんが、養子と云うと蔦屋重三郎の娘婿かも知れません。
蔦屋重三郎の妻
歴史学者安藤優一郎の書籍には、重三郎の死に際に別れの言葉を交わしたこと、文政8年(1825年)に妻が死去したことが記されており、正法寺の過去帳に記された
「錬心妙貞日義信女 文政8年10月11日」が重三郎の妻にあたると見られています。

山東京伝のもとを、執筆の依頼に訪れている蔦屋重三郎の様子。
左の机に座っているのが京伝、まん中でお茶を出しているのが京伝の妻・お菊。
右に座る重三郎は「たとえ足を擂粉木(すりこぎ)にしても通ってきて、声をからし味噌にしても…先生の悪玉の作を願わねばならぬ」と催促している様子。(寛政5年刊)
蔦重の死
寛政3年(1791)に刊行した山東京伝の洒落本『仕懸文庫』、『錦の裏』、『娼妓絹麗』が幕府の忌諱に触れて蔦屋は財産の半分を没収され、京伝は50日間の手鎖の刑という厳罰が下されたのでした。
この弾圧により、狂歌ブームは収束、狂歌の帝王・大田南畝(蜀山人)の引退(後に復帰)などが重なって蔦重の出版物の人気が急速に衰えてしまいます。
蔦重は処罰の五年後にあたる寛政8年(1796)からは病気がちとなり、その翌年。
寛政9年(1797)5月6日
脚気(かっけ:江戸患い)
齢48で病没してしまいます。
「江戸患い」
江戸を訪れた地方の侍や大名を中心に江戸に行くと体調が悪くなる、足元がおぼつかなくなる、怒りっぽくなる、場合によっては寝込んでしまう者が続出。
侍たちが故郷へ帰るとケロリと治ったことから「江戸煩い」と呼ばれる病が流行りました。
江戸を離れると麦や穀物、野菜などを中心とした食生活に戻るため、自然と回復した
脚気はビタミン欠乏症の一つで、ビタミンB1の不足によって心不全による足のむくみ神経障害による足のしびれが起きることから「脚気」と呼ばれています。
「惜むべし、寛政九年の夏五月脚気を患ひて身まかりぬ。享年四十八歳なり」
曲亭馬琴が『近世物之本江戸作者部類』でそう書いているように、寛政9(1797)年5月6日に蔦重は48歳でその生涯を閉じる。
狂歌師の大田南畝は寛政9年の年明けから蔦重の見舞いに訪れるようになる。
南畝が幕臣として記した勤務日誌『会計私記』(寛政8年11月1日~寛政9年6月14日)では、寛政9年3月27日に耕書堂へと見舞いに訪れたときのことを、こう書き記している。
耕書堂にも立ち寄ったが、病は全快していなかった
蔦重の死からわずか7年ののち、文化年間に入ると、幕府の統制も緩んで江戸の文化創造は再び活性化していきます。
新しい文化を牽引したのは、復帰した太田南畝(蜀山人)をはじめ、蔦重と縁が深い山東京伝、曲亭(滝沢)馬琴、十返舎一九葛飾北斎といったメンバーでした。
これに式亭三馬、柳亭種彦、為永春水、
歌川広重といった新しい才能が加わって、江戸の都市文化が大きく実を結ぶこととなったのです。
蔦重 日本橋四部作如何でしたか?
これを読んでまた大河ドラマが面白くなる事を願います。
ここに取り上げた年表で特に脚注の無い記述は 田中優子『蔦屋重三郎 江戸を編集した男』の「関連年表」を参照している。
・寛延3年(1750年)1月7日、蔦屋重三郎、新吉原で誕生。
宝暦7年(1757年・7歳)前年に実母が家を出たことにより、重三郎は喜多川氏の養子になる。
・安永2年(1773年・23歳)新吉原の大門口五十間道に貸本、小売りの店舗を開店する。朋誠堂喜三二の洒落本『当世風俗通』刊行。
・安永3年(1774年・24歳)吉原細見の改め『細見鳴呼御江戸』編纂に携わる。「蔦屋」の名で初めて北尾重政の評判記『一目千本』刊行。
・安永4年(1775年・25歳)洒落本『青楼花色寄』刊行。吉原細見『籬の花』の刊行が始まる。
・安永5年(1776年・26歳)北尾重政、勝川春章の彩色摺絵本『青楼美人合姿鏡』刊行。
・安永6年(1777年・27歳)『明月余情』『手ごとの清水』『娼妃地理記』刊行。
・安永9年(1780年・30歳)朋誠堂喜三二の黄表紙、四方赤良の『虚言八百万八伝』などを刊行。
・天明元年(1781年・31歳)志水燕十の黄表紙『身貌大通神畧縁記』刊行。作画を手掛けた北川豊章が初めて歌麿を名乗る。
・天明3年(1783年・33歳)9月に日本橋通油町に進出し、耕書堂を開業する。 両親を引き取る。
狂歌師としての活動を開始し「蔦唐丸」を名乗る。喜多川歌麿画の『燈籠番附 青楼夜のにしき』、四方赤良編の『通詩選笑知』刊行。吉原細見の株を独占し、『五葉松』を刊行する(序文は朋誠堂喜三二)。
・天明4年(1784年・34歳)北尾政演画の『吉原傾城新美人合自筆鏡』、四方赤良編の『通詩選』刊行。
・天明5年(1785年・35歳)山東京伝の黄表紙『江戸生艶気樺焼』、洒落本『息子部屋』、狂歌集『故混馬鹿集』『狂歌百鬼夜狂』『夷歌連中双六』などを刊行。
・天明6年(1786年・36歳)山東京伝の洒落本『客衆肝照子』、北尾政演画、宿屋飯盛編の狂歌絵本『吾妻曲狂歌文庫』、喜多川歌麿の絵入狂歌本『絵本江戸爵』刊行
・天明7年(1787年・37歳)山東京伝の洒落本『通言総籬』、喜多川歌麿の絵入狂歌本『絵本詞の花』、四方赤良編の狂歌集『狂歌才蔵集』、北尾政演画、宿屋飯盛編の狂歌絵本『古今狂歌袋』刊行。
・天明8年(1788年・38歳)山東京伝の洒落本『傾城觿』、喜多川歌麿の絵入狂歌本『絵本虫ゑらみ』刊行。
・寛政元年(1789年・39歳)喜多川歌麿画の『潮干のつと』刊行。
恋川春町の黄表紙『鸚鵡返文武二道』刊行。
・寛政2年(1790年・40歳)山東京伝の『小紋雅話』、洒落本『傾城買四十八手』刊行
・寛政3年(1791年・41歳)山東京伝の黄表紙『箱入娘面屋人魚』、洒落本『仕懸文庫』『青楼昼之世界錦之裏』『娼妓絹籭』が摘発される。重三郎は身上半減の重過料が課される。
・寛政4年(1792年・42歳)曲亭馬琴が番頭として蔦屋で働き始める
10月、母の津与が死去。
この年より翌年にかけて喜多川歌麿の美人大首絵を多数刊行。
戯作制作を断念し、書物問屋として学術関連の書物刊行を始める。
・寛政5年(1793年・43歳)結婚を機に曲亭馬琴が退職。
・寛政6年(1794年・44歳)この年より翌年にかけて東洲斎写楽の役者絵を多数刊行十返舎一九が蔦屋に寄宿、黄表紙 『心学時計算』刊行
・寛政7年(1795年・45歳)版元蔦屋重三郎として確認されている最後の錦絵(東洲斎写楽作)が刊行。
本居宣長の随筆集『玉勝間』刊行。
・寛政9年(1797年・47歳)前年秋ごろより体調が悪化する。
3月危篤 5月6日、脚気により死没正法寺に葬られる。
・文政8年(1825年)に妻が死去
文久元年(1861年)蔦屋耕書堂廃業。
