3月21日は、弘法大師が入定された日です。
入定とは、瞑想の世界に入って祈り続けることを指しています。
何のために祈り続けるのでしょうか?
それは、
弘法大師には、壮大な願いがあったからです。
虚空尽き 涅槃尽き 衆生尽きなば
我が願いも尽きなむ
最後の一人が救われるまで、私の願いは尽きることがない
弘法大師はあえて涅槃に入らず、最後の1人が救われるまでこの世にとどまって、祈り続けることを誓って瞑想に入られたのです。
「救う」とは、輪廻から解脱することを意味しています。
ですが、輪廻うんぬんよりも、まずは目の前の苦しみを取り除くことが大事だと、私は考えています。
きっと、弘法大師もそのように考えていたと思います。
なぜなら、僧侶しか救われない奈良仏教に疑問を抱き、一般の人々が救われる教えを求めて命懸けで唐に渡り、密教を持ち帰ってきたからです。
人々の苦しみの多くは、病気から来ています。
生活が厳しいことよりも、自分や家族や大切な人が病気になり、医者から見放される状況の方が、はるかに苦しいはずです。
嵯峨天皇が重い病気になった時、弘法大師は加持した神水を嵯峨天皇に届け、薬と一緒にお飲みくださいと伝えています。
嵯峨天皇は、その後快癒しました。
ところが、こういう事実があるにもかかわらず、加持の力を信じていない真言宗の僧侶が多いように思われます。
中には、ご祈祷に否定的な考えを持っている真言宗の僧侶もいます。
もしかしたら、嵯峨天皇は薬で治ったと信じているのかもしれません。
薬で治らないから、弘法大師が祈祷したのです。
密教は癌も治すことができるのに、
葬式仏教化した真言宗を弘法大師が見たら、
きっと嘆くことことでしょう。
病気治しは、いかがわしいと思っている僧侶もいるかもしれませんが、この考えは間違いです。
病気を治すのは、仏縁を深めるための方便の一つです。
密教によって癌が治ったら人生観は変わりますし、目に見えない宇宙意識に生かされていることを信じるようになります。
せっかく頂いた命だから、自分だけでなく、
人のため地球のために生きようと思うようにもなります。
難病から人々を救うことによって、地球がより良い場所になっていきます。
極論を言えば、戦争もなくなると思います。
僧侶がいくら立派な説法をしても、人々の人生は簡単に変わりませんし、地球も良くなりません。
以前、例え話を書きましたが、
飢え死にしそうな人に、いくら立派な説法をしても、心に響きません。
与えるべきものは説法ではなく、食べ物です。
ところが、食べ物を持っているにも関わらず、
飢え死にしそうな人に説法しようとする。
厳しいことを言いますが、これが今の多くの真言宗の僧侶だと思います。
なぜ、目の前の苦しんでいる人に食べ物を与えないのでしょうか?
なぜ、お加持で、難病に苦しんでいる人達を救おうとしないのでしょうか?
僭越ながら、これまで、密教でがんが治る話を紹介してきました。
私は真言宗の得度を受けていますが、本来であれば、僧侶がこのような話を積極的に広めるべきだと考えています。
加持で難病を治している真言宗のお寺は
ごくわずかです。
もしも、より多くの僧侶が加持の力を見直し、
真言密教によってがん患者を救って行く流れが出来たなら、私は喜んでこのような情報発信するのを辞めるつもりです。
虚空尽き 涅槃尽き 衆生尽きなば
我が願いも尽きなむ
この言葉に自分の思いを乗せるのは、おそれ多いのですが、
難病尽き、衆生尽きなば
我が願いも尽きなむ
これが私の願いです。
Sealed with LOVE ❤️