1.小学生のころ、黒澤監督が作った姿三四郎の映画を見た.姿三四郎は講道館初期の柔道家である.

廃刀令が出て剣術と柔術が、役に立たん時代遅れだと誰も習わなくなっていたころ、講道館柔道が流行りだした.これに今までの柔術使い達が業を煮やし、講道館に試合を申し込んだのだが警視庁が乗り気になったかして、公開試合をすることになった.

柔術の代表が、良移心当流柔術家の中村半助で、講道館からは姿三四郎が出てきた.

中村半助の役を志村喬がやり、姿三四郎の役を藤田進がした.

「いざ参ろう」と半助が声をかけ、三四郎と組んだとたん三四郎を担ぎ上げて肩越しに背後に放り投げ、三四郎が首から落ちて死ぬかと思ったら途中で猫みたいにひらりと一回転して足から着地した.

私はそのとき、「なるほどなー、ああすればいいのか.あれなら自分もできそうだと」いう気がしだした.

そのあと色々すったもんだしたが最後に半助が何度となく投げ飛ばされて立てなくなり畳を爪でかきむしった.

 

2.新潟県柏崎市東栄町3丁目の私の家の隣の隣が押見という布団の棉打ち直し家の子供で「押見利保」(オシミトシヤス)という者で1ツ年上だ.これがアンチャと呼ばれていた.

押見のはす向かいに一つ年下の吉岡吉雄の家があり、これがオッチョと呼ばれいた.ヨシオが訛ってオッチョになったものである.

 

3.柏崎市は日本海の海岸に沿って拡がる砂丘の上にできた町で、私の家から出て左に50メートル行き、野中碁会所を右に曲がって50メートル行けば工業学校のグランドがありその先に広がるグミの林を抜けると砂浜になり、さらに行けば、海水がとても綺麗な渚にでる.

 

4.グランドの端に立てかけの小屋があり、まだ骨組みだけだから、アンチャとオッチョと私の三匹でこれ上ったり降りたりしてして遊んでいたが私はこの小屋の上から猫ヒラリができそうだとフイと考え、下は柔らかい砂地だから丁度よいと思ったから、屋根の上から地面に向かってドタマからダイビングをした.

不安とか決断などというものはない.猫ヒラリの実行は私の内部に於いてすでに確定せる理論的事実であり、後はやるだけの事であったからだ.しかし空中で一回転するはずであるのが半回転しかできず背中からズシンと落ちて息が詰まった.これを見ていたアンニャとオッチョがたまげ、「シューチャンが死んだシューチャンが死んだ」と言って逃げ出した.私は息が詰まっていたが意識はあり耳も聞こえていたからこれを聞いて憤慨した.15秒して息が戻りムクムクと起き上がって、「おーい待て」と呼び止めたら戻って来て、「ワハハハ危ネかったの-」とか「ワハハハよかったのー」とかほざいているが私は、「お前ら死んだといって逃げた癖に何を言うか」と思っていた.

 

5.それからだいぶ後今度は夏目漱石の文芸小説「三四郎」というのが映画になり、私はこれが柔道映画だと思ったので見に行った.家から右に50メートル、野中碁会所を今度は海と反対方向の左に曲がり裁判所の切れたところを右に曲がり、小汚い畑道や醤油醸造所の裏の細道をシネクネと進んで焔魔堂の裏手に出る.これが近道で柏盛座という映画館は焔魔堂の隣にある.中に入ると袴姿の学生(みたいなの)や着物姿の若い女が出てきて喋ったり喚いたりしている.映画の筋書きもよくわからず、柔道の果し合いがなかなか出てこない.とうとう根負けして途中で映画館を出て帰った.

 

6.売名好きの宮本武蔵が「神仏を尊び、神仏に頼らず」などといったが、この程度のことなら誰でもいう.しかし、私は神仏など眼中になく、自分の妄想を尊んだのである.

猫や三四郎の凄さは、彼らが慣性力の頼らずにヒラリ業を使うことである.

砕けて言えば何か別の勢いの力を補助的に使わないで端的に無の中からヒラリ業が出てくることにある.例えばオリンピックの体操の選手は大車輪をして勢いをつけてその勢いを利用して回転したりウルトラひねりをしたりしているのだが、猫を見たまえ.

両足をつかんで何の勢いもつけないで手を放しても、内発的なひねりを自分で生み出してヒラリと回転して地面に降り立つ.

姿三四郎も、中村半助がそのままドタマから落下するように放りつける.

私の場合も同様空中一回転をするために何の予備力も用いていない.

それでも三四郎は自らの内発慣性力により猫ヒラリをする.

私も同様一回転までしなかったがちゃんと半回転したではないか.

この観点からして内発慣性力においてもっとも偉大なのが猫と三四郎で、二番目に優れているのが、コ、この私で、

三番四番がなく五番目くらいにオリンピクの体操選手が位置しているのである.

(分かったかコラ)