32.兵器の限界的な発達(=核兵器の破壊力の巨大さと凄惨さ)が我々に対して与える変化
❖前書き(一般原則):核保有国対核保有国が正面から国対国としての(通常)戦争をした事例が存在しない。
けだし、互いの核暴発を恐怖するために一方が他方を互いに決定的に挑発するような行為を差し控え、計算し合うからである。
これに対して核保有国対非核保有国間においては、核保有国は非核保有国に対して、その暴発を恐怖する度合いが低く、非核保有国は核保有国に対して、その暴発を恐怖する度合いが高い。
したがって非核保有国は核保有国の挑発を非常に辛抱強く、にこやかにさえしてでも我慢するが、その反対に核保有国に対する挑発の限界値は非常に低くなる。解りやすくいえば非核保有国は核保有国に対して些細な挑発をも怖くてしたがらない。
したがって核保有国が勝手に自国の領土を設定し、自国の専管海域を指定し、この海域内において相手国の漁船を銃撃し人員を殺傷し、或は相手国の島嶼に上陸してここを占拠してわが領土であると称し、或は国境を侵犯して資源を搾取するなどという行為は核保有国が非核保有国に対してのみ行うことができるが、非核保有国はこれに対して正面から戦争をもって対抗する気力が失われている。-ということは結局、外交的手段でもって解決しようという気力さえももうなくなっているということである。
なぜならば、このような緊張度の高い外交交渉は戦争をすることが可能であるというバックボーンによってのみ有効に展開することができるものであるからである。
非核保有国がいくら気取って核反対などとさえずって見せても、また核保有国が世界安定のための核拡散防止体制(=核保有独占体制)の維持などといって見せてもそれらの一切は現実の心理の前においては虚偽である。
1.凄惨さを本当に知っているのは第一に実際に核兵器を試された人々で、第二に臨場目撃した人々、中でも肉親、同胞、など。第三、第四、・・・と関係が離れて行くほど概念的な知識になる。
破壊力の巨大さと後遺症の執拗な陰険性に関する知識は通常この暴力手段を使おうとする者をして狐疑逡巡させ、恐怖厭世の気持ちを起こさせるのだが、いつでもそのような気持ちが保証されるとは限らない。
実際、過去に、自分達の虚栄心と、核生体実験への誘惑に駆られて原爆を使用したといううつけ者がいた(トルーマン)
次のような事を本気で空嘯いた独裁者もいた(毛沢東)
「わが国が核攻撃を受けて、数千万人くらい死んだところで、わが国には元々六億以上の人間がいるのだから問題ではない。勝負はそこからである。」(毛沢東)
これはとても荒れすさんだ精神の内面ではあるが、このような気持ちを持つことが時には、またはとても簡単頻繁に、人間において可能であるという事実を示している。
実際、中国はアメリカが核戦争を怖がることを見越して、南シナ海の埋め立てと領海編入をとても速いスピードで実行しつつある.
次のように断言した大統領もいる。
「我々は、限定的核兵器による攻撃を先制的に行う事を躊躇しない」(ブッシュ)
「我々は今回の欧米によるウクライナ侵出の出方の如何によっては核戦争もやる」(プチン)
宿敵・仇敵に対する核攻撃はカタルシスを伴う。
この時、破壊力の巨大さと凄惨さは、反ってこの暴力手段を使おうとする衝動を促す。
慈悲、良心、理性、など気高い気持ちは、気高いが為に儚く、実現することが困難であり、自分が気高いつもりでも他人もそうであるという保証がなく、それを確認する術もない。故に、核に対する抑制作用は、実際はどうであろうとも、相撃ちや、報復に対する恐怖にのみ依るものであると初めから決めて掛かるしかない。
2.核兵器を持っていれば、それだけで、最後には本当にそれを使う場合もあり得るぞと言う気持ちが相手方の心の中に貫徹される。使う可能性が本当にあることも事実には相違なく、この点で戦略核と戦術核の間に本質的な違いはない。
核兵器使用の実際の可能性が天上に舞い上がって姿を隠したかに見えるが、しかし、実際それはちゃんと存在していて最後の(時には最初の)切り札として控えている。核を実戦に使う可能性が本当にゼロであるならば誰もそんな厄介なものを持とうとはしない。
;01.9.11のアメリカ本土に対する初めての攻撃テロは、アメリカの中に核超大国であることに対する不満と無力感、そして焦燥を引き起こしたであろう。その為であるか、ブッシュは、対テロ戦争に於いて、小型核の限定的先制使用も辞さぬなどと迄言った。
3.天が人を見ている訳ではない。人の目が人を見ているのであるから、人の口を封じさえすれば後のことは知らない。
化学兵器、細菌兵器、地雷、(アメリカが開発に着手した)小型戦術核、などはその無差別殺戮性と、その陰険残忍さに於いて大型核兵器と互角の存在であるが、小出しに使えるから非ポピュラーな局地戦や、少数民族虐殺戦などの中で、天下に知られる懼れが少ないならば害虫駆除剤のようにして使われる。
*-(アメリカは小型戦術核を、地下深くに格納した兵器を破壊したり、地下に潜っているテロ国家の首脳やテロリストたちを殺すために限定的に使用したりするとはいっている。)-
仮に核暴力独占国が1つ丈居たとした場合、その者は威圧的であり、知らず知らずのうちに周囲がその者に迎合してしまう。核兵器を持たない者は持つ者に対して-(その屈服が要求される限り)-屈服する。
正義は後者、核暴力独占国にある。核兵器所有がステイタスであり、非保有国に対する態度が、仮に表面に出ていなくても、心の中で違ってくる。
と言う事は核武装が優越と我儘の拠り所の一つである。核保有国がそのことを強みにして開き直り、物事を強弁したり、ダダをこねたりする可能性は100%ある。
4.暴力を欲しがる我々の気持ちは卑劣なものであるが、この卑劣さは非常に根が深く、我々の実存の奥底から出ている。実際、強くなって勝ちたいという欲望は自分よりも弱い相手だけをやろうとする卑怯な気持ちと裏腹をなしているものであって、そこから暴力手段を開発追求しようとする無際限的な過程が進行する。それは指を指しただけで眼前の一億人を一瞬にして焼き殺すことが出来るような全能への願望である。
その経過は手段が化け物のように成長して我々を振り回し、捲き上げ、呑み下す。
この世界の構造は私達が有限な環界の一部であり、私達が死の運命の中で互いに分裂している事を示す。
したがって最強者が尤も卑劣であり得るという倒錯したような命題が真実を物語っている。核暴力においては手段が実存に突きつける苦渋に満ちた問いかけ-[対等なリングの中で勝負をしろ]-この問いかけの持つ酷薄さが最大値を取るので、この問いかけに応え得ることが人間にとって果たして可能であるのか否かが疑われる。しかしながら、手段の無際限性自体がリングの規則であると一旦してしまえばそこで論理的には矛盾が消えてしまう。