源流~1.自己犠牲という徳義が教義・純粋想念として非常な亢進、悪く言えば人命軽視の思念的強請、人命軽視神聖化の強要的な共同呪縛にまで、必要以上に偏って成長してしまった。
これが正確にいつから始まったのであるかはよく解らない。
楠木正成のような人が日本精神の鏡として聖化されたが、これは後の人々による価値培養によるものであるのか。この人は単に己の理性の命ずるところに従っただけであるのか。
日本の軍エリート達は、その多くに見られたように、自ら呼号して他人にはそれを要求するが自分達はエリートだから当然その例外であるかのように振舞う卑怯な習性を次第に身に付けていった。
けだしその要求するところが極端に厳し過ぎて久しければ、人々はそれに耐え続けられず、次第に欺瞞変質してしまうのは止むを得ない生理でもあるであろう。
実際、兵隊の命を湯水のように費消しつつ、その限りにおいては十分に勇ましかったが、自分が前線の指揮を委ねられ、ご自分の命も湯水のように取り扱わねばならないという時至って、急激に自信を喪失し、みすぼらしく弱音を吹くに至る将軍や提督や参謀が極めて多かった。
将兵達の忠勇に極端に依存し、それが全てであるかのごとく、したがって、技術の研究も非常におろそかにされた。
忠勇義烈、お国のため、死を見る事帰するが如く・・・云々と強調しながら、それは自分がするのではなく、人にやらせるのだ。
そして、責任を感ずることもなく、研究も怠けてエリート気取りで毎日を過ごし、政治に手を出して介入した。
特に旧日本帝国陸軍は、それを上級幹部将校の集団としてみるとき、軍隊というには値しない。
彼等は兵隊を鉄砲(天皇の鉄砲)や戦車(天皇の戦車)以下の、下位兵器の一種とみなして無責任に戦場に投入し、費消してしまった。しばしば独裁者がお得意とする人海戦術作戦を、近代陸軍と称する日本の陸軍はやったのである。
兵隊の費消に頼って戦をし続けた日本帝国陸軍は独り立ちをした軍隊とは言い難く、その他力依存性(兵隊頼み)からして、まだ独裁者の原始軍隊状態であった。
(注意)~(犠牲が出る、または犠牲が必要とされるのは、弱点においてである。通常賞賛される犠牲と称する行動の原因は生存意思であり、生存して目的を達成しようとする意思である。
犠牲と称される行動に価値があるのはこの点においてである。
この意思が場合によっては犠牲と称される結果を呈するが、犠牲自体が目的とされ意識されているものではない。犠牲自体が目的とされ意識され目指される時には、それは一種の変態であり、退廃の兆候である。
犠牲という評価は結果としてその果実を受け取った人々による犠牲者と称される人々に対する尊敬の表明であるか、若しくは、負い目の感情を埋め合わせるために作り出されたものであるかである。)
源流~2.陸軍の特別攻撃方式の発案企画は、参謀本部策戦課航空班長の鹿子島という中佐、それに矢作という少佐が始めたという。(「陸軍特別攻撃隊」~高木俊朗)
しかし突然にこのような人が出現する訳も無く、またこの二人が、個人の主体責任に準拠して特別攻撃のようなことを企画立案するほどの人間であるとも思われない。
よって特別攻撃の源流の数々を取敢えず次の通りと推定する。(源流は錯綜しており、これといった一本の線を確定することができない)
1.実戦者の決断、組織的な下からの意見具申-実存の飛躍、勝とうとする執念の示現がしばしば体当りのような特別攻撃として行われる。
勿論これは日本軍だけの現象ではなく、世界中の軍隊(=人間)に普遍的に見られるという事実がある。(これが日本においては特別攻撃推奨キャンペーンのネタにされた。幾つかの壮挙をピックアップして御用新聞によってプレスキャンペーンを張らせ、特別攻撃の先駆けとして国内にセンセイションを巻き起こし、機運を醸成しようとした)
*昭和19年九月十日、フィリピン-ミンダナオ島のダバオにある海軍32特別根拠地隊で、見張りのものが波しぶきに驚愕してアメリカの艦隊が攻めてきたと報告したため、司令官八代清志海軍中将以下司令部が競って逃げ出し、つられて第一航空艦隊でも司令官寺岡謹平海軍中将も二十六航空戦隊司令官有馬海軍少将に指揮代行を指示して遁走したが、飛行場に無防備に並べておいた戦闘機60機を放置したままであったためこれが翌々日の九月十二日、今度は本当の米空軍の攻撃によって全部破壊されてしまった。この醜態に怒った有馬は「俺が手本を見せてやろう」と、直接に攻撃隊を編成しミンダナオ沖の米艦隊を攻撃したが、敵空母に対して攻撃をかけるに至らず、その前に圧倒的な米戦闘機に食いつかれて墜落してしまった。
しかし、海軍はこれを有馬少将の体当たり攻撃と作為し、
「真一文字的空母の胴体に突入、空母轟沈」などと発表したが、発表されたのは八日も後になった九月二十日で、丁度神風特攻隊の編成と登場に日時を合わせ、これを景気付けようという意図のものであった。
2.戦局の敗勢に伴う手段の逼迫
3.流行思想~人命軽視、自己犠牲精神の絶対化想念の流布。しかしこれは流行思想であって哲学ではない。何となれば哲学は人間が自分で独立して行う追求行為であり、流行思想というようなものではないのだからである。故に思想を吹聴し、組織し、欺き、命令をするが自らはそれが何を意味しているかを知らない。
実際これは責任感と、バーチャルレアリテイ(仮想現実)的習性とが程よく共在しているという、とても都合の良い流行思想ではあった。
4.大将級のものから発せられた、委託、お墨付き、より本質的にはひそかな命令の存在
~しかし、正面切って命令した人間が(海軍の大西滝治郎ただ一人を除いて)存在しない、今風に言えば「顔のない」異常な戦法であった。
したがって、この作戦によって我々は何を達成しようとしているのであるか。それが果たして可能であるのか。この作戦を計画し組織した後、仮に目的が達成できた場合、如何にして残された人々が自分達の正当性を主張できるものであるか・・・と考え抜けば必然越えることができない壁に突き当たるのであるが、そのような内的作業はなされず、かえってそのために特攻作戦が惰性的に執行され続けられたのであった。
5.幾人かの有力者による提唱-
▶伏見宮博恭王(元軍令部総長)はマリアナ沖海戦大敗の直後に「特殊艦艇、航空機による攻撃」が必要になったと言い、参謀総長と軍令部長にこの旨提案した。これを受けて大本営が「必殺方式」の採用を陸海合同で互いに提案し了承した。陸軍においては東条英機の示唆と黙認により、後宮淳大将が航空総監に就任し特攻を推進した。
海軍においては軍令部作戦部長中沢佑と連合艦隊主席参謀の黒島亀人が特攻作戦の採用を強調主導し、黒島はグライダー、ロケット、水陸両用の戦車、魚雷、モーターボートなどによるグロテスクな自殺兵器の考案に熱中したが、本人が実行する気はなく、戦後も生き延びている。
▶特攻が始まる1年前、昭和18年秋、既に軍令部の源田実参謀と、黒島亀人参謀が体当たり自殺攻撃を作戦に取り入れなければならないと意見が一致していたという(戸高一成~「海戦から見た太平洋戦史」角川oneテーマ21).その胸算用は既に澎湃として沸き起こりつつある少壮指揮官達の特攻希求の高まりがあった.
▶最大の特徴は全員して互いに誰かに寄り掛かってことを進めて行った点にある。
それはわが国二千年の伝統であるところの、意思の中心、意思を担う責任が存在しないような意思決定方式であり、
「政治的に日本は個人から成り立つ国家ではなく、比喩を持って表現すれば、巣箱の防衛のために集団で活動し、騒ぎ立て、戦う、一箱のミツバチだからだ」(「敵国日本」-ヒュー・バイアス―内山秀夫・増田修代訳―2001.10.31-刀水書房)
▶そのため、このような特攻を推進した多くの人々は自分が特攻の顔ではないといって戦後も生き残り天命を全うした。
▶第五航空艦隊から100機をこえる特攻機を出撃させた沖縄の「菊水」作戦時における司令長官宇垣纒中将は、天皇の終戦降伏に関する勅令が出た後であるにもかかわらず、制止する部下に対し、「頼む」と手を合わせて拝み、「菊水」作戦の責任に殉じて、特攻機を編成し、これに同乗して出撃、戦死したが、筆者が宇垣中将の書き残した出陣の遺書から邪推するに、これは多分に、自分の最後を飾り、最後を全うしようという意図による出撃であったものと思われるし(出撃途上飛行機から打った電報の文調からそれが解る)、戦果もなかった.この特攻は、既に天皇が日本の降伏を連合国に伝達し、日本軍に停戦命令を出した後であったので、この行為は天皇による、連合軍に対する約束違反につながるものであったが、幸いに米軍に被害がなかったので問題化せずに収まった。だがもう死ななくても良い16名の若い人を道連れにしてしまった.
参考:宇垣纒中将の電報
「過去半歳ニワタル靡下各隊ノ奮戦ニカカワラズ驕敵ヲ撃砕シ、神州護持ノ大任ヲ果タスコト能ハザリシハ、本職不敏ノ致ストコロナリ.本職ハ皇国無窮ト天航空部隊特攻精神ノ高揚ヲ確信シ、部隊隊員ガ桜花ト散リシ沖縄ニ進攻、皇国武人ノ本領ヲ発揮シ、驕敵米艦ニ突入撃沈ス・・以下略」
▶桜花特別攻撃隊の司令官岡村基春大佐は、かねてより強烈な特攻推進論者であったが、その責任に殉じ、鹿屋基地において自決した。
▶終戦直前の第三艦隊司令長官寺岡謹平海軍中将は、敗戦日1945.8.15、残存航空機に対して房総沖のアメリカ機動艦隊に対する特攻出撃を命令し、その際、「君達だけを死なせるつもりはなく、必ず私も後から行く」といったが、そうしなかった.しかし、彼がそう叫んだ時点に限っては本当にそういう気になっていたのかもしれない.けだし、人間は瞬間的には、真実と称して自分自身をも欺こうとするものだからである.