(8)

「敵には困らぬが味方には困る」と山本五十六は言った。山本は、牛馬に言語を教え込もうとするが如き際限のない徒労感にその生涯を通じて悩まされ続けた。

そして、連合艦隊司令長官になり、具体的に対米戦をしなければならないとき到ってからは軍令部や海軍省に対する、そして、南雲や草鹿など実戦部隊の指揮官たちに対する、不毛とも思えるような説得に精神を消耗すると共に、時間の切迫がこれに加わってきた。

山本五十六は「最終的に勝ち切る見込みが立たない」と言って日米戦争に反対していた。

しかし密かな内心の奥底で、官軍薩摩藩出身の東郷平八郎に対抗して賊軍長岡藩出身のこの私が、ロシアをはるかに上回る未曾有の強敵アメリカを蹴散らして物見せてくれようという強い衝動にも支配されていた。彼は手紙の中で自分を昭和の相模太郎(蒙古襲来のときに蒙古の使節を斬って日本を防衛した北条時宗のこと)に擬している。

しかも「アメリカと戦うため」という名目で日本海軍はこれまでやってきたのであり、アメリカと戦うために莫大な人命と血税が注ぎ込まれ続けてきたのである。

そのためにアメリカと戦争をすれば負けるから、もしアメリカと交戦するということになれば私は連合艦隊司令長官を辞任するとは決して言わなかったし、戦争をすると国が決めた場合、それにしたがって、戦争を実行するのが連合艦隊司令長官の任務である限りは言う立場にはなかった。

()のちに、s16.8に開かれた御前会議において、海軍における対米戦争に関する見通しの不明瞭さを察知された天皇が珍しく激怒し、ご自身の意見を激しく披瀝し、「アメリカとはあくまで外交交渉でゆけ」と、天皇としてのタブー(君臨はするが、直接統治しない-と云う事)を破って、殆ど命令であるかのように叱咤した。

動揺した陸海軍の間で、「対米戦の将来について自信なし」と互いに言わせようとする醜悪な争いが発生し、結局、対米戦争に於いて主役として戦うことになる海軍の及川海軍大臣に対して、海軍の見解(対米戦争に自信なし)を申し述べるべしというプレッシャーが集中した。

(永野軍令部総長は、既に海軍強硬派の対米戦争断行論にいかれてしまっていて論外と見做された)

しかし、及川は「それを私の口からはいえない。それを決めるのは総理(近衛文麿)の仕事だ」と逃げた。

開戦後それを聞いた山本は「自分がその立場(海軍大臣)にいたら、はっきり勝てないと云ったネ」と言った。

山本にとって「海軍は勝てない」は、海軍の存在意義喪失を意味していない。それは、「未だ勝てる状態にはない」という意味である。しかし、及川にとって「海軍は勝てない」は、自分が海軍の意義喪失を表明した人物になることを意味していた。

(注意)-この対米戦回避に関する、連合艦隊司令長官としての山本五十六の対応と、同じ山本でも初期日本海軍の基礎を作るとともに日本海海戦全般を取り仕切って勝利に導いた当時の山本権兵衛海軍大佐(当時海軍官房主事-しかし、実質上の海軍大臣として取り仕切っていた偉人)が、北清事変のとき、陸軍が独断でアモイに兵員を海上輸送しようとしてしまった時に、これに時期が早すぎると反対して、「その船を海軍が国籍不明船とみなして撃沈する」とまで言って中止させた事例とを対比して、煮え切らない五十六のほうに批判的に論評する人もいるが、この二つでは事情がまるで違っている。山本権兵衛の行為は、単に出兵の手続きとタイミングを咎めたものであり、清国との戦争それ自体の可否に関する干渉ではなかったのであり、しかも軽忽にも、現実に陸兵輸送船が動き出してしまったという緊急的な状態であった。五十六においては日米が戦争をするかしないかという国策の根本に関わる事項である。したがって、まったく事情の違うこの二人の対応の違いを批判的に比べてはならない。

日露戦争のときにロシアのバルチック艦隊と洋上決戦をしてバルチック艦隊をパーフェクトゲームで全滅させた東郷平八郎連合艦隊司令長官の場合、人事、外交(終戦処置)、経済(戦争経費の調達)、技術、作戦、すべてに亘って優れたメンバーがバックアップしたので、東郷は色々な司令長官の機能のうち、その一つの役割、即ち、戦い、そして、勝つ意思の権化として海戦を指揮する事-に専念できたのだが、時代が変わって政治も軍隊も、日本を取り巻く世界情勢も格段に複雑化したなかで、制度腐敗を起こしていた昭和海軍の山本五十六は、全く一人として戦略的なバックアップを持たない状態で、非常に複雑で孤独な近代戦争をただ独りで戦ってしまった。

(実際、我々はこの論文に於いて、山本五十六一人に対して、海軍大臣と軍令部総長と、連合艦隊総指揮官ならびに連合艦隊名参謀と内閣総理大臣の四つの役割を果たせとでもいうような批判を展開する場面をしばしば持つに至るであろう。)

これと反対にアメリカの海軍は溌剌としていた。

戦争遂行中でも常に戦術と技術を活発に開発し続けた。人事は結果能力主義ではなく、事前能力主義、または途中能力主義が果敢に取り入れられ、容赦がなかった。それは企業が、儲かるか儲からないかを賭けるようなものではなく、国の生存が賭けられていた。

戦闘区域の現場においてさえも、戦闘が終わって結果を見てからではもう遅く、その前に様子を見て、時には未だ戦闘している最中であるのに、だからこそと指揮官を入れ替えるというような残酷な人事が頻繁に行われたが、その方法は非常に効果が挙った。

このアメリカ軍の溌剌とした状態が、決して制度腐敗や慢心堕落を引き起こすこともなく、現在にまで衰えることなく継続して、今では世界で一国だけ抜きん出た軍隊を持つ存在と化してしまった。