真珠湾攻撃実戦の概要-

ヨーロッパにおけるドイツの膨張とフランスのドイツに対する屈服に便乗せんとする日本軍が、石油や鉄の確保をしようとして、機会便乗的に米英仏蘭陣営の優先支配区域にある南方アジアの中にある旧フランス植民地仏印(現ベトナム)に進出したので、これがアメリカを刺激し、アメリカによる対日禁輸(特に石油禁輸)が起き、日本軍がこれに反発して日米戦争になり、日本海軍は、(当時アメリカは、日本に対する威嚇のため米本土西海岸にいた米国太平洋艦隊をハワイに進出させていた)持てる制式航空母艦全6隻を動員してこの米ハワイ艦隊を奇襲し米主力戦艦8隻を撃沈・大破させるに成功した。

これは出発地点単冠湾からハワイまで実航海距離が約6500km、味方の航空母艦6隻からなる大軍を直接に、しかも敵に知られることなく、敵軍の本拠地に導入するという異様な作戦であった。

しかし、

敵主力航空母艦(レキシントン、エンタープライズ)、石油貯蔵庫、工廠、地上に格納配置してある航空機、などを、あまり深く追求せず、十分に攻撃せずに放置して、自己満足的に離脱帰航してしまった。

日本は、ハワイ攻撃と同時に宣戦布告書をアメリカに通告する予定であったが、日本害虫省アメリカ大使館員の、日本害虫省における伝統中の伝統、得意中の得意技たる飲酒パーテイの開き過ぎによるものか否かは知らぬが、二日酔い出勤遅延のために宣戦布告電報の通訳とアメリカへの通告が、ハワイ攻撃よりも4時間も遅れ、アメリカによる「真珠湾騙し討ちの卑劣日本」という世界世論形成に寄与し、後の原爆テロに対するアメリカの、「原爆テロは真珠湾に対するアメリカの報復であり、アメリカが保有する日本に対する当然の権利行使である」という口実を与えてしまった。

注意:対米最後通告遅延の経過に関して次のような研究も存在する。即ち、

「対米宣戦布告書の交付作業に並行してルーズベルトからの天皇に対する親電が打たれた。この親電はルーズベルトの対米国民に対する己の戦争意思を隠蔽するためのアリバイであったのだが、陸軍参謀本部の瀬島少佐が天皇の戦争決意変更を恐れて開封を10時間差し止め、それに併せ対米通告書の送付も遅らせた。そのため待ちあぐねた在米大使館員達は某書記官の転任のための送別会に出席して一晩棒に振ってしまった。したがって参謀本部の謀略が対米無宣告不意打ちの原因になった」

というものである。

~井口武夫「開戦神話」~中央公論社

しかし、上記のような事情があったとしても、この、今送られてくるかと待ち構えている通告書の内容に予定されている重大な意図とその緊迫感とを本国と共有し得なかった大使館サイドの怠慢が否定されるわけではない。これから重大電報があるのを知っていながら全員がパーティに出ることはない。

誰かを残しておいて緊急連絡がつくようにしておくのが常識であるが、大使館員は全員が酔いつぶれて、翌朝10時過ぎに大名出勤をした。

機動艦隊司令長官南雲忠一海軍中将と、同参謀長草鹿龍之介海軍少将は、連合艦隊司令部による、「帰路ミッドウエイ島を空襲せよ(偶然この島に米空母レキシントンが出張していた)」という命令を「横綱を倒した関取に大根を買ってこいというようなふざけた命令だ」と称して(実際は単に怖かったのがその理由である。しかし、草鹿は戦後の回想録ではこの怖がった事実を隠すためこのように弁明的に記録している)これを無視した。更に、源田参謀や淵田攻撃隊長が主張した米航空艦隊との遭遇戦を期待するハワイ→九州への直行中央航路帰還を拒否し(丁度そのライン上にウエーキ島に出動していた米空母エンタープライズがいた)非常に用心深く衝突(=チャンス)を回避して帰ったという事実が存在する。

南雲と草鹿は自分達の指揮する航空艦隊の偵察能力が信用できないという理由から、上記の連合艦隊命令と、源田や淵田の上申(継続攻撃)を忌避した。この偵察への軽視は後に続くミッドウェイにおける敗北の最大原因の一つとなったが、結局、南雲長官は、自分達の航空艦隊には遭遇野戦能力がなく、据え物斬りしかできないと思っており、それに対して殆ど無策のままに身を委ねた。

山本五十六は後日、「あの時せめて米空母を3隻くらい沈ませておけば・・・」と憤懣を洩らしたが、それは自分の指導力上の欠陥によりもたらされた結果であるという自覚は(多分)なかった.何となれば、この後ミッドウェイのときにも同じ間違いを繰り返したのだからである.