1-ホ.国家意思-国家意思とは何か?それは国家自我の実現を目指す意思であり、更に国家自我実現の過程と結果を通して示現するところの存在論的実存の表現である。

1.国家意思と言うと怖がったり毛嫌いしたりする人が(日本には)沢山居る。(要するに怖いのである。)

―そんなものを持ったから戦争をしたのであり、国家意思などというものが無ければ安全である。意思などの無いナマコのようにして暮らしていればそれで良い―しかし本当は逆なのであって昔は(大東亜戦争前の頃は)国家意思が無かったから戦争をしてしまったのである。(以下の参考事例参照)

現代日本が国家意思を持っていないことは周知の通りで、梅毒憲法と桃色腐敗教育のお陰で、国家意思大嫌い人間がボウフラのように涌いて出ている。

しかし国家意思なるものに関して研究したり、一体それが何であるかを考えたりすることも無く単に感情生理において嫌っているのである。

2.国家意思は唯一人だけが担い、責任は唯一人だけが引き受ける(しかない)

勿論、その故にこの権力は、自分に委任された国家意思権力から分岐派生する色々な責任を創造し、他の者に担わせる権能を併せ持つ。

(参考事例)イ.-対支那戦争前後の日本の状態

▲当時の日本は政治体制そのものに欠陥があって国家意思が表現出来ないでいた。

具体的にはそれは天皇制の一形態であり、天皇が最高権力でありながらその権力を行使することが殆ど出来ないというものであった。

天皇が直接に「こうしろ」「余はこう意思する」とは言えないのだが、天皇が持つ至高絶対の権力の一部は天皇の軍に対する直接統帥権なる形式をもって存在し、この権力が天皇から軍に対して委託され殆ど丸投げされ切ってしまったのである。

政治の決定と天皇により与えられた(と僭称するところの)軍の統帥権とが衝突して後者のほうが圧倒的に強い。

元老というのが居て彼らが談合をして首相を内定してそれで政府の陣容が決定する。

時には陸軍の下僚-たとえば武藤章軍務局長など-が近衛文麿を担ぎ上げようとし、軍・政・財一体挙国一致内閣と称して各方面に画策し、軍の総意と称して元老達を突き上げ、元老重臣たちのあるもの(木戸幸一内大臣など)は之に迎合して自己安全の途を選択したりしていたこともあった。(s14.11)

しかし陸海軍少壮階級の将校たちがその陣容が気に食わないと陸海軍大臣を出さないという。

陸海軍首脳の多くは臆病者であり、少壮階級将校の反抗やテロや、少壮階級将校間における自分の人気低下などを怖がっているためにこれを統御することが出来ない。

そうすると大臣を出せと命令することができる上位権力が存在しないものであるから、内閣を成立させることが出来なくなり、更に内閣が仮に成立したとしても、その内閣の施策が陸海軍の気に食わなければ陸海軍大臣を辞任させて陸海軍の手によって内閣を壊すことが出来る。(首相には大臣に対する人事権力がなかった)

陸(海)軍の少壮幹部(勿論、これに色々な将官級の上級幹部が結合しているわけではあるが)の多くは軍備拡張(陸海軍が仇敵同士のようにして軍事予算を奪い合った)、省益(軍益)追求、海外進出などの施策を巡って争ったが、その思慮は反抗青年的であり、時局便乗的であり、単純な国権拡張主義的であり、未熟なものであった。

陸海軍幹部は青年将校のロボットであり、そして、ロボットででも良いから陸海軍大臣になりたい、参謀総長になりたい、軍令部総長になりたい、というような人が海軍兵学校、海軍大学の好成績と世渡り術の手腕、そして、人畜無害であるか、又は中堅幹部に受けが良いという四つくらいの武器のみによって高官職に就任できた。

▲支那事変の拡大は、下克上的な、見通しの中に責任を持っていない中央の迷走に起因するところの、出先軍隊の緊急対応的な対支那出兵・交戦から始まる。

早晩、このような事態が惹起するであろうという可能性は十分に予見できたのであり、その雰囲気を出先と中央が共有し、幾通りかの対策を準備して置かなければならなかった。

そして、実際にこのような事件(満州盧溝橋における、支那蒋介石軍に浸透していた共産党スパイの謀略よる、日本軍への発砲→両軍の交戦→戦闘の拡大)が起きた場合には一気に根本的に解決へと進まねばならなかったのだが、日本陸軍と日本政府は不意を突かれて、対支派兵兵力増強派と、和平推進派の間で意見が四分五裂し、方針は中央と出先間で錯綜し、そして、中央内部に於いても責任権力が存在しないために、一貫した意思と方策を内外に対して示し、そして、実現し得なかった。

そのために対支那強攻策と融和策、対支那積極策と弱気策とが交代して表現され、いずれの策も途中で切れて、誰も責任を取ろうとすることも無くずるずると支那大陸の泥沼に嵌って行った。

▲一旦戦闘が始まったならば、(それが戦争に直結する必然性ありと認められる場合)直ちに、そして速やかに、可能な合理的限界まで、国防線を越えて制覇圏を拡大して行かなければならない-という否応なしの物理法則がある。(星秋~「国家間暴力原論-下巻最終項[勝つために]」-参照)

支那事変の場合

*戦力一挙投入(実際には色々に揉めて、結局陸軍4個師団のみ投入されたが、反って収束に苦しみ、以後、戦力の逐次投入、戦線拡大という泥沼に嵌まってしまった)

*当時の支那大陸に於いて、蒋介石軍閥政権、汪兆銘政権、ソビエトコミンテルンの指導下にある共産軍、の三軍閥が割拠していたが、勿論、共産党軍は論外であり、日本政府としては最有力な蒋介石を相手とし、早期大量集中戦力投入と徹底制圧とに併せ、それを背景に蒋介石との講和を推進すべきものを、近衛文麿首相が、思いのようにならない蒋介石に業を煮やして「蒋介石を相手にせず」などと衝動的に口走り、蒋介石の立場と心理とを著しく悪化させてしまった。

*当時の日本に対する、主として米英に存在する対日嫉妬や対日警戒などの峻酷な対日感情に鑑み、又、国際的な立場から見た損得計算からも、講和の条件として日本の戦利利権要求(領土割譲、移民促進、戦費賠償要求など)は(満州国の不可侵と支那における日本人の安全保障を除き)しないほうがよかった-にもかかわらず、権力が分裂せる日本政府は、多数の兵隊が命を落とした事情もあって、国民の意向に迎合し、上記のような戦利利権の獲得を漫然と目論んでいた。