6.目的対手段
a.-目的と手段夫々の正邪善悪に関する判断基準を正確に定位することは出来ない)-何が良くて何が悪いか~その判断と分かちがたく絡んで、損得計算、美醜・好悪の感覚が介入しており、しかも己を常に正当化しようとする理屈抜きの自我が夫々の正義を主張している。そこで以下においては正邪善悪の判断は、「理由を明らかにしたうえで、常識の許す範囲において人々が各々自分の正邪判断をする」のに任せるものとする。
b.結果が良いと手段は総て正当であるという考えは次のように解釈できる。
イ.色々な結果のうち私が一番良いと思う結果をもって良い結果という
ロ.しかし使った手段の中には悪いものもあった。これは良い結果をもたらすに役立ちはしたものの悪い影響(結果の一種だ)を派生させている。
ハ.以上を踏まえてこの考えは次のいずれかの解釈に該当する。
a.私の真実である
b.私の弁解である
c.私の真実でも弁解でもある
この解釈でも判るように「結果が良いと手段は総て正しい」という考えは明らかに事後になって初めて言えるスローガンでしかない。何故ならば、事前にはまだ結果が不明だからである。それ故に事前には次のように言うことになる。
「目的が良いとどんな手段も良い」-このスローガンの意図するのは次のことである。
イ.予めしておく結果への弁明(「そんな積りではなかったのだ」と言ったり、「やったことは悪いが動機は純粋」などとおだてられたりする)
多くの場合動機の正邪が、又は動機の純粋性そのものが先ず疑わしい。この純粋性なるものが単にお脳の劣弱性を物語っているか否か調べなければならない。弱い精神が純粋性であると誤解されるからだ。
ロ.熱情の正当化、更には熱情そのものの表現
ハ.勝ち負けの呪縛-先ず勝つことだ。理屈をこねるのはそれからだ。主導権争い、権益の取り合い、そして理念の闘争においても勝ち負けの呪縛が圧倒的な支配想念である。人はこの想念によって仕事もするし、仕事を破壊したりもする。純粋理念自体は何の力もない。勝ち負けの呪縛が先にあって理論がそれをバックアップする。あるいは理論が先に在り、勝ち負けの呪縛がこれをバックアップする。理念が対立理念を嫌悪する。なぜ嫌悪するのかというと理念がまさに理念であるためであり、理念が一個の欲情と化して一切の熱情を従えてしまう。
ニ.手段が本来目的であるのに、あくまで手段であるにしか過ぎないと強弁する。そのために手段がもっともらしい別の目的をでっち上げ、紡ぎ出す。
c.悪い手段は欺き、盗み、破壊し、色々な犠牲を出す-犠牲は忘れ去られるが旨みである悪い手段は生き残って熟練し増殖する。義務感やエリート意識によって武装した悪い手段の専門家グループが王国を作る。その下に悪い手段がもつ蠱惑的な味に溺れる多くの劣弱階層が裾野を形成する。
d.悪い手段をもって先に仕掛けたほうが悪者になる-そして仕掛けられ、または仕掛けさせた側に悪い手段を使って報復すべき口実を与える。報復するときに用いられる悪い手段は口実の功徳によってもう少し、(時にはもっとはるかに大幅に)エスカレート出来る。だが先に仕掛けたほうは相手方のエスカレート行為によってその負い目が消えるわけではない。そして悪い手段が発覚するのはおおむね非力なサイドにおいてであり、力の優越は悪い手段を隠しおおす余裕を持つ。
e.目的がもつ諸性質は直接に、似たような性質を持つ手段を見つけ出して採用する-けだし、手段は目的を成し遂げるための手段だからである。ゆえに、悪い目的には悪い手段が対応するし、その逆は逆である。結果が生きている間、良い手段を用いる過程に対する、その追想の中の情感を支配する基調低音が存在していて、これが人々の未来を励ます。逆に悪い手段の毒素は集団の中に密かな自己不振、相互不信・自己侮蔑、相互侮蔑という形で浸透する。そして自己と他人への敬意が主たる色調に成り得ず、悪い手段をもって習性とする有能な方々が互いに評価をめぐって利己的に動き、人々の統合がとても簡単に共食いと不信の関係に転化をする.アメリカの謀略機構がその典型的な実例である.
f.悪い手段を使うものは恐怖する。恐怖の内容はこうだ。
イ.他人に露見することを恐れる
ロ.己自身を恐れる。(原罪的意識だ。)
この怖れを打ち消そうとして悪事を追認的に繰り返して行う。逃げるか?忘れるか?それとも嵌り込むか?ためらえば奈落に落ちるであろう(実際にはもう落ちているのだが)共犯者を作って引き込むか?共犯者が多ければ多いほど味方が増えて、味方が多いということが遂には正当さの根拠となる。これが数の力というものだ。そして終いには一切の事に慣れてしまうであろう。
g.悪い手段を常用すると、正攻法を主たる手段にする精神の力を削ぎ、腐らせる-しかし悪い手段は一方において、スリリングな悦楽の深淵に人々を誘い込む。悪い手段を使って事がうまくいって、他人に知られる事が無ければご当人はそれで済む。
後は澄ました面をして世渡りを続けてゆくだけのことだ。神はこの者に対して直接的には何一つ指示もせず裁きもしない。勿論間接的な神の裁きらしいようなことは起きている。例えば腐敗、堕落、醜悪、怯えながら、自己を嫌悪しながら生きてゆく事、などという形をもってである。しかしこれが神の裁きであるなどという証明をする方法がない。
しかもこの神による裁きもどきは、ひどく気紛れでいい加減であり、不公平に適用される。それゆえに悪いことをしても他人に露見しないで済めば、その後は当人の自由意思がその人の今後を決定することになる。神の目は他人の目がこれを代弁するのみであって「神の前で、唯一人で立ち、云々・・」などという態度は虚偽である。何となれば例外なくそいつらの言と行が一致していない。人間というものは劣等だと思う他の人間に対しては害虫に対すると同様、恥じたり畏れたりはしない。人間はまた都合の悪い他人をこの世から抹殺しきってしまえば、誠実の、良心のという気持が消し飛んで霧消してしまうであろう。
実際、人間の誠実性に対して裏切られた相手の目が脅威であり、この脅威感は子供や動物の目に対してさえも感ずることさえあるのである。
h.勝ち負けの中で手段を選ばない事-
「何をしてでも勝ったほうが勝ちである」ということが究極的である。この手段の無際限性の罠に一方が踏み込んでそれが相手に察知されれば、そこからはもう早い者勝ちな状況が現出する。そして底無しの罠の奥に総てが吸い込まれる。こうして精神のペストが世界中に猖獗するが、いやでもそうしないと負けて食い殺される状況がある。だから悪い手段には最高度レベルに熟達しておかなければならない。
そうしないと悪い手段を予め察知することも制圧することも出来ない。悪い手段というものは悪を制圧するためである場合に限って晴れやかに使えるのだが、大抵の場合、誰でも夫々の正義(もどき)を持っているものだ。だが手段の無際限性への誘惑は勝ち負けが理非を超えた事実であり、「勝ったほうが勝ちである」という、当たり前のようでいて測り知れず底深い秘密の味わいである。
後は自分達の悪の痕跡を焼き尽くし、忘却するだけのことだ。対等な土俵の中で闘うという考えは、手段的に無制約なリングで闘うことを、その一切の結果と共に引き受けることを含む。故に結果が良いと手段も許されるなどという浅はかな命題が論議される余地などは全く無い。何となれば結果の正邪損得に関係無く一切の手段を使うしか他に方法がないのである。
i.理性は手段の問題を予め色々に思考演習しておいたほうが良い-生半可な理性は逡巡し、疑い、迷う。一方において理知を単に道具として使う恥知らずな者共は理性が人に与える猶予をはじめから省略してしまっているから逸早く手を出して、理性的な人間を殴り倒す。同様に始めから食うか食われるかという敵対をもって主要テーマとする者共は、その実力にふさわしからず融和的であり良心的であるようなうかつ者共をとても簡単に食い尽くしてしまうのである。
j.不寛容な教義は-その力強さによって私達の欲求に訴え、私達の非力さや意志の弱さ、弱い知能などを補完することによって私達を支配しようとする。これに対して寛容振りを示すことは往々にして、何も決めかねている迷いや臆病や不決断の兆候でしかない。∴教義の命令に対しては即座に不信と拒絶とをもって反応しなければならない。
k.悪い手段に溺れる人々はいずれ精神が腐って自滅をする-これは自然がもつところの理法の命令であるのだが、その間において多くの善良な人々を犠牲にする。そして多くの場合散々に暴れまくって存分に思いを遂げた後にやっと自滅をする。
l.「国とか民族の為」が最高の徳義であるとされるのは-個人正当化のため最高の源泉である絶対主権の主が国家であって国家群を統括するより上位の権力が存在しないからで、そしてそうである限り国と国との諸関係の中には汚いものが沢山出て来て、これをコントロールするものがいない。汚い行為のために個人に対して恥や罪の重圧が直接に来ないで、通常国が先ずこれを受け止める。勿論国にとって、あるいは政治権力にとって割が悪くなれば個人は簡単に切り捨てられるかもしれないであろうが。良心の晴れやかさは私益を追求したのではなく公益的動機にある。自分が善良だからでなく、周りに敵がいなくて味方が多いから晴れやかな訳だ。総ての国々が汚いことをしているか、または出来るものならそうしたいと思っていて、この共通な罪においてより上位の正義が存在せず理念は無力であり国益が最優先される。しかし戦術的には他国の不徳義は格好の餌食であり、とても有効な攻め立て道具であって、それ故に、他国の不徳義を煽り立てて自分達のそれは巧く隠しおおす才能が有力である。(勿論このような才能自体が畜生以下の浅ましいものではあるのだが)
m.要約-結果(より正確には目的)に準拠して手段を評価することは総て口実であるか弁解である。
結果がよければ手段は総て良いなどというマキャベリ的なスローガンは浅薄である。究極の追求の中で選択される手段はそれが悪い手段であっても、結果が得られて、しかも手段の毒素が消毒され切ったときにのみ結果が手段を許容する。しかしそれはいつも、総てが終わって私達の手を離れた過去になってしまってから後講釈としてそう言って見せるだけのことなのであって、このスローガンが行動指標として私達を導いたからではない。それ故に始めからこのスローガンを当て込んで行動するのは良くない。
目的の聖化によって手段を正当化した場合、すぐに手段に淫して行く。聖なる目的が後から付け加えられるのである。