6-7.

国家間紛争における交渉と解決の諸過程

 1.以下では交渉がまだ意味を持っている限りにおける事象が対象になる。

条理というものを次のように決める。

打算的な妥協や無理非な呑み込みを勘案の外に置いて、純理的に見た正邪、又は互いが折り合う割合の決定根拠を条理とする。

条理の指導概念は先取特権優先、故の無い侵害または主権干渉の否定、地球公共財に対する私的特権行使、ないしは破壊の禁止である。

 2.条理の多義性と曖昧性―

イ.事実が持つ曖昧さ-事実の確定が条理判断の前提であるが、これがはっきりしない事がある。

~(例)事実があった、対、無かった、因果責任系列の無限遡及、対、遡及の打ち切り(下手をすると何億年も前の神話まで持ち出しかねない)、誇張、主観的な想念を一般化してしまう、等

ロ.解釈の多義性-仮に事実が確定したとしても、その事実に関する条理解釈が争われる場合がある。

(例)~公共財であるか否か、行為がルール遵守のなのであるか、又はルール侵害なのであるか、等

 3.条理が物事の基本であり、全ての人々、全ての国々が(理由はともかくとして)条理を欲しがる。したがって、条理の状態は三種類ある。

ⅰ-真の条理

ⅱ-不正な条理であるが、ご当人は正しい条理であると思い込んでいるか、または思い込まされている

ⅲ-間違っていると知っていながら、条理を強弁するか、又は条理を捏造する

このことは、人々がどれほど条理に拠り所を求めようとしているかを物語っている。けだし人は、狐疑、猶予、逡巡、怖れ、などから逃れようとして、敵味方をも欺きながら条理を所有し、確信し、時にはおのれ自身を欺いてまでも条理にしがみつく。

 4.国家間の条理が、より正確には条理と称するものが互いに衝突するとき、純粋に条理だけの論争によって交渉を妥結させることはとても難しい。

両当事者が唯一の真実と唯一の公正を追求し、それが見つかって、互いにその条理に服従する場合にのみ条理による解決が可能である。この場合には非条理の無理非的な呑み下しは起きていない。

 5.条理をこれから(自分に都合のよいように)作ろうとする場合がある。例えば相手からの(自分への)依存を最大に、自分の相手への依存を最小に誘導しようとする行為は、その出発点に於いて条理が存在せず、逆に行為によって自分の条理(既成事実)を作ってしまおうとする。「我々はこれだけのことをお前達にしてやっているではないか」と言おうとするのである。

 6.取引の導入-条理が衝突し合って行詰れば、その状況を突き破ろうとして、交渉の中に取引が導入される。その時の力関係は相手に対する依存の大小、相手が利用しようと思っているような餌、相手に利用したいと言う気持ちを起こさせるような餌をどれだけ持っているかによって決定される。

次に示すように、条理の補完(代用)として採用する取引は、当事者を両方ともに不納得のままに呑み下させるのが一般的である。

当事者Aの考え・・・Aに七の条理があるが

          Bにも三の条理がある

当事者Bの考え・・・Bに七の条理があるが

          Aにも三の条理がある

仮に五対五という分け前で妥協したとするならば、Aは自分の条理を二つ削ってBに与えたから、丁度その分二だけ、見返りを請求する権利を我慢して呑み込む。BはBで全くその逆のことを考えている。故に取引をして、互に与えあって同時に貰いあったような気分に成れるという、特別な相互依存や相互利用が存在する場合に限って呑み下しの無い妥結が可能であり、それ以外の場合には取引が公正ではありえない。

 7.無理非の発生-依存~利用の現況、又は予期を与え、あるいはその停止を仄めかしたり予告したりして脅かすことによって条理を奪い取ろうとする時に至れば、条理が補完されないままに呑み下しを強要し、又は強要される状態、即ち無理非が立ち上がる。

 8.無理非状態に入れば暴力予兆がはじめて明示的に出現できる。「できる」としたのは、ここに至って必ず暴力予兆が出るとは限らないからである。

しかし、暴力予兆というものが非常に所期の段階から一切の交渉の中に姿を現しているのが実状である。

そして、無理非を呑み込めと脅かした次の段階においてはもう暴力が出て来る他に方法がない。(尤も、その前に第三者仲裁が行われることもある。)

暴力予兆とは暴力の優劣計算、暴力の行使仄めかし、直接的な脅かし、暴力行使予告、その実施に至るまでの過程の全てを言う。

 9.純理上、暴力には自在性があり、条理を強弁し、強欲や増長慢を押し通すような低い段階から、正しい条理自体を追及し、損得や我儘とは関係なく押し通すに至るまでの表現の幅を持つ。

暴力は、無理非の権化であり、納得したい気持ちや取引をしようとする要求などを無条件に黙らせることができるパワーであるが、人間の自由と国家主権とを100%黙らせるということは、暴力のみによっては不可能である。

現実の歴史を見ると、多くの戦争に於いて、暴力の至高な表現とは純粋条理の執行ではなく、条理を自己肯定のための道具として押し立てて行う国家エゴの執行に過ぎないのが見て取れる。

それ故に、条理を押し通すと称する強国間の戦争は、正邪善悪とは範疇を異にする実存表現の闘いであり、そこでは正邪でなく勝ち負けが世界表現の全てである。

 10.暴力上の非力さは不道徳を糺すことあたわず、逆に不道徳を(いざな)い、精強な戦力は(少なくとも自分に対してなされる不道徳な行為に対しては)それを予め抑止する。

非暴力主義―(言い換えれば非暴力願望=理性(?)だけで何事も必ず解決すると思い込む事)―(あるいはその最悪の形として、非力性を売りにしようとして暴力鍛錬を放棄した者共が非力さということで開き直ろうとするような計算=ガンジーの亜流)―が引き起こす害毒の一つは自由精神の放棄である。暴力を自らのイメージから排除したと称する理性は、理性とは似て非なるものである。何故ならば、真の理性は一切の可能性を排除せず、逆に一切の可能性を追求しようとする終りのない過程の中にいるのだからである。

条理善悪を自ら選択する力量は強者においてのみ可能なのであって、弱者は選択するのではなく、選択を余儀なくされるのである。

正義を行おうとして内的に決意し、そのための自制や断念ということを知っている尊敬すべき強者は未だ嘗て一つの実例も無いのだが、なおその自制と断念の表象は、我々の自由性を導く想念における至高の極北に位置し得て、このときに暴力予兆の存在そのものがこの理性に対して光彩を投げかける。

(注)~(実際問題としては、強者の自制が単に相手の愚かしさを刺激して、付け上がらせるだけの結果しかもたらさない場合も多いので、要注意である。暴力行使の徹底さが暴力の強さと暴力主体の存在容量とに比例する。それとともに暴力主体における自制の可能性も広がる。暴力行使を徹底して行わないと後になって余計に暴力がエスカレ-トするものと思われ、暴力を行使するしか他に選択肢がもうないと思われるような局面が存在するかのようにも見える。)