Ⅱ.抽象力学-(対称性超越)
力の抽象的永遠性を次の条件によって定位する.これ以外に定位する方法はない.
第一 力が強大である
第二 終りのない鍛錬を持つ
(系)超越性を持つ
この定位は哲学的であるとともに現実的であり、したがって、現実に即して終わりのない煩悶を引き起こしている
第一条件の解説
前書き.「力」を厳密に定義することに大した意義があるとも思われないが、あえて次のような定義を付け加えておいても以降の論議に何の混乱も引き起こすものではない。
イ.我々の生存上の、すべての本質に対して、これを育成し、又は逆にこれを阻害し抹消する作用(又は同じことであるが作用する本体)を力という。
ロ.我々は例外なくこのような力を持ちたいと欲し、そして、万人が互いの力関係の中に常時曝されている。
ハ.自らは全く力を欲情せず、同時に、あらゆる力を持ち、しかも自分の外からのあらゆる力の作用を受け付けない存在を超人という。
1.力そのものは理由のない事実の世界に属するもので、それは丁度物質宇宙の全体が無意味な集合離散を展開し続けている表象に類比され、そこに、a-prioriな倫理的規範を見出すことはできない。力の強弱は運命によって流れ出て消え去る。
この強弱の配分には何の根拠も理由もない。
2.力は自分自身の為にどのような目的と手段をも持つ。力は良心を持たない。それは暗黒の無の中でおのれ自身を描き出し、支配し、発光し、欲望する。力は一切の是非善悪を踏み躙って抜きん出ようとする。力はおのれが欲情している事が成就することを欲し、絶対万能の神であろうとする。
3.この第一条件は完結することが不可能である。安息の秋はやって来ない。一人一人の個人が世界の有限的な逼迫の中にいて、互いに優位に立とうとして世界を波立たせている。それが一切の動きの始まりであり同時に終りでもあるような構造の中で、我々は絶えず力のゲームから出発させられ続けいて、終着駅にたどり着くことが決してない為に、我々は最終的な安らぎの秋に対する願望を放棄させられるであろう。
勿論、このゲームを放棄したければそれは簡単であり、敗北を受け入れれば済む事だ。しかし、敗北の美学などは我々の標的たるに値しない。
したがって我々は解決の無い世界の中で、徘徊し、そして闘い続ける。
第二条件の解説
1.力が我々に現象として与えられるのだとしたら、その事は我々に取って、落し物を拾って儲けたというだけの事でしかない。それ故に、我々は自由意思によって力に至ることを欲する。故に、我々は力に対して、即ち、自分自身に対して終わることのない鍛錬を要求する。停止はない。
このの第二条件は、我々の持つ自分が自分の原因であろうとする欲求から出てくるものだ。
存在すると云うことは、もろもろの抵抗を克服して生きて行こうとする熱情に他ならない。
このような欲求を我々は自由意志と呼ぶ。
2.力の世界に自由意思が介入することによって直ちに力の闘争は存在論的な闘争に変化する。
(=力が現象の領域から価値の領域に移動する)
自由意志が自己自身の原因であることを自らに要求すると言う責任の観念は存在論の分野に属する。
自由意志は自己原因の想念によって自己を照射しコントロールしようとするので理性的である。
*-(理性の深淵そのものは盲目的である。自己原因としての自由意志の本質は盲目的衝動である。―その盲目的なものが自己を示現するときに取る表現形式―それを我々は理性と名づける。)
(系)
1.第一条件は力の無際限性を導く。これが第一条件の系として出てくる超越性である。この超越性は決して実現することができず、実現された状態の表象を描き出すことさえも不可能である。
それは完全な自由や絶対正義の想念と同様、完成に近づくにしたがって関係性を喪って無の中に蒸発する。故に、この導きは我々にとって単に指導想念であるに過ぎないのだが、しかし、それは過程の中に見えない姿を現して、我々が有限な世界の中で到達し、完成することを拒否するかのような遥かの彼方より、我々の内奥に向かって語りかけ続けることによって、無意味な我々の生とこの世界とを生きるに値するものにする。
2.力が自己原因であろうとすることを放棄するとき、(=力が鍛錬を放棄するとき、)力は抵抗力の弱いほうに向かって短絡をする。力は短絡する事によってもろもろの欲情を実現しながら、併せ力の行使そのものを娯しむ。これを力の放出という。
力の放出は、より困難な事柄に対する選好の喪失によって力の(=我々の実存そのものの)崩壊をもたらす。
それは放電によって電圧が低下するさまに似ている。
我々はこのような力の兆候を病んでいるものであると感じ取る。この感じは我々にとって自然な、内在的なものであり、我々にこのような感じを惹き起こさせるものを力の第二条件から得られる超越性と定義する。
以上で明らかなように、この超越性の主要な色調は自制である。
*-(この自制は力の放出に関する自制であり、必ずしも力の行使に関する自制を意味するものではない点に留意されたい)-
*-(行使する可能性を秘めていない力は舐められるであろう)-
問題12.力の放出と行使の違い
定理の効力
力の永遠性を定位する諸条件は我々に対して命令を下す権利を持っていない。条件は我々がそれを選び取ることによってのみ我々にとって現実であり得るに過ぎない。そこには強制も罰則も無い。
実際、諸条件が強制命令によってなされるとしたら、それは実につまらないものでしかない。
そして、つまらないという以上に大きな苦痛でもあるであろう。だが、力の永遠性が持つ抵抗し難い魅惑は、この永遠性が持つ、もっと元素的な要素に分解還元して説明することがもうできないという、その根源性の中にある。更に、あらゆる力の絶望、無価値、堕落、腐敗、はこの三つの条件を踏み外したときに起こっているという事実がある。
永遠性を更に分解しようとする試みはすべて一つの世界解釈にしかすぎない。そこで、このような毒にもならず薬にもならない世界解釈の例を少し示しておく。
(例)1~生命は宇宙が自己自身を認識するための(我々が知る限りでの)唯一の形式である。我々の自制は、宇宙の、生命の中への自己分裂という事象を通して宇宙自身が我々を試そうとしている質問に対する我々の回答である。
分裂した固体の一つ一つが自分を世界の中心だと考え、絶対万能者であることを願うのだが、この願望自体が実現不可能な矛盾であるから我々はこれに対して自制を以て答える。
(例)2~万能の力に対しては良心や人道主義などという束縛が通用しない。万能の力は恐ろしいものを何一つとして持たないので因果応報も罪も罰も無い。最後の審判などというしゃら臭い教説など何とも思ってはいない。ならば万能なる者が何かを欲し行う時に何を行動指標とするか。―唯一「おのれの価値」実現を指標とする。価値というものは一般に抵抗を克服して何かをしたときに生ずるものであるから、その者は抵抗を(万能であるが故に)自己自身の中に求めなければならない。そうなると必然、できることは自制くらいしかない。他に何をしてみたところで真空の中で腕を振り回す以上のものではあり得ない。
問題13.この二つの例示が単なる解釈でしかないことを証明せよ
問題14.超越性命題は力の濫用に対する保険、ないしは防御を本質に含むか
定位された条件の究極性並びに必然性
1.力とは存在空間に密度の偏りがあるという事実の呼称である。解釈的には宇宙が自己自身を認識(=表現!)しようとして、それを生命への分裂という形においてなそうとしていて、各分裂固体、ないしは、各分裂集団間の、自己表現形式を、力の関係としてとらえたものである。
2.力の放出は他人から嫌悪される。しかし、放出は当の本人にとって悪ではない。力の放出が本人に対して疚しさや浅ましさなどの感覚を呼び起こすのは、力の退廃と敗北の感覚によってであり良心によるものではない。力の放出に対して私達は、
ⅰ.やっかみから、
ⅱ.その卑しさを嗅ぎ取って、
ⅲ.決定的にはその被害者であることによって、
これを嫌悪する。しかし、ご当人自体はこれが大好物である。(誰でも自分だけは別格なのだ)
しかし、この場合、自己自身に対する尊敬は決してない。力の放出が代償の支払いを伴わないとき、他人はそれに反感を持つ。力自体は盲目的であり、自動的に蓄積し、発散しようとする。力の主体が自己自身に対してつける注文は、もっと力が欲しい。そして力を堪能したいというだけである。
3.ならば他人が力に対して肯定的に注文をつけるとは一体どういう理由によるものであるか。
力の永遠性が我々の裡に喚起する情感がもしかして別な次元のところにあるのかないのか?
イ.心理的な説明
人々にとって公平は心地がよい。力の占有に伴う害悪は抑制され、やっかみの心も湧いてこない。
しかし、このような事情からは存在論的な価値感情は出てこない。納得や歓迎といった気持が、それ自体から何か別な光彩陸離たる憧憬感情を生み出すことはない。前者と後者は非連続的な壁によって仕切られている。心理的な説明はこれで行き止まりになる
ロ.形態的、弁証法的な説明
形態的な説明は単に次のようなことを言い得るに止まる。
力への欲情が世界の分裂を志向する(闘争)
その後世界は単体に収束する(決着)
そして単体は再び分裂する(そうしないと世界は
死滅する)
ハ.哲学的な選択
力の永遠性に関する条件というものは、我々がニヒリズムに屈服しない限り、この哲学的なアプローチ方法しかない。力の永遠性に関する条件が我々に呼び起こす情感は明証的な事実である。それは我々が自らの持つ自由性によって、無の中から摑み取ることができて、そうすることによって自由が現実の形を取る。
*-(この明証性は次のようなものである。私達は1+1=2であることを知っている。あるいは点と点の間を結ぶ最短距離が直線だなどという。しかし、何故1+1=2になるのであるか。それは一体何を意味しているのであるか。一体何処から、この疑いなく知っているという事柄がやってくるのであるか?と問われるともう答えられなくなる。このような解らなさというものは、いずれは解決される性質のものではない。)
問題15.第一、第二、の各条件と(系)とによって構成されるものとは別なアプローチによって力を定位し、それがa-prioriではあり得ない事を示してみよ