(戦後70年へ)「あと3時間で神に」 母の顔浮かんだ
上遠野郷
2014年10月22日21時39分
上空1千メートル。真っ青な海に、朝もやが立ち上る。鹿児島・薩摩半島の南端にある火山、開聞(かいもん)岳が、朝日を浴びてオレンジ色に輝く。その姿が、次第に遠ざかっていく。
1945年5月4日。19歳の桑原敬一さん=横浜市=は、串良基地(鹿児島県鹿屋市)を飛び立った九七式艦上攻撃機の操縦桿(かん)を握っていた。
後ろを振り向き、美しいなあ、この世との別れだなあ、と思うと、涙がぼろぼろ出ましてね。前を向こうと思っても、何度も振り返っちゃって。めがねを外して、風圧で涙を吹き飛ばすんだけど、それでも涙がとまらなくてね。
米軍が上陸した沖縄をめざしていた。敵艦を見つけ次第、体当たりする。後ろの座席の機長と電信員も、空の上で一言も発しなかった。
この風景こそ、おれが守ろうとするもの。この美しい国を守るために、おれは死ぬんだと、自分を納得させることに必死でした。正直に言えば、覚悟というより、しかたがないという、あきらめの気持ち。まさに絶望でした。
88歳の桑原さん。足取りはしっかりしていて、声には張りがある。健康は、毎朝20分のウオーキングのたまものだという。
生きようと努力しているよ。生への執着は、たぶんね、ほかの人よりも強い。私は、3度、死んだからね。
軍の中でも「外道」とされた戦術に、日本軍は70年前の10月、踏み出した。若者が中心だった特攻隊員。その中でも、最も若くして出撃した世代の元隊員を訪ねた。
■出撃命令、母思う
桑原敬一さん(88)は、海軍のパイロットをめざす飛行予科練練習生(予科練)の試験に合格。「乙18期生」として土浦海軍航空隊(茨城県)に入った。1942年5月のことだ。
翌月、日本軍はミッドウェー海戦で米軍に大敗。戦局はじりじりと悪化していく。44年10月25日、フィリピンの戦いで海軍は特攻に踏み切った。さらに45年2月、各地の練習航空隊を再編し、特攻作戦の主力にすることを決めた。
桑原さんは44年春に予科練を卒業。秋からは兵庫・姫路の航空隊に配属された。だが、教育訓練は2カ月を残して打ち切られ、飛行歴1年ほどで員になった。
「明日早暁、沖縄に向けて出撃せよ」
45年5月3日、桑原さんは、出撃拠点の一つだった串良基地(鹿児島県鹿屋市)で命令を受けた。19歳だった。
郷里の母の顔が浮かび、涙が出てきた。
母は、きょうだいたちは、生きていけるだろうか。国が勝っても、家族は、のたれ死にしてしまうんじゃないだろうか。そんな考えが頭をぐるぐるし、苦しくて、気が狂いそうでした。
岩手県にある寒村で育った。実家は特に貧しかった。予科練を選んだのは、給料をもらいながら旧制中学と同等の教育が受けられたからだ。父は44年末に亡くなった。母と4人の弟、妹の暮らしは、姉と桑原さんの仕送りが支えだった。
遺書には、心残りもあるが、みんな助け合って生きてくれ、としか書けなかった。
ほとんど眠れないまま、出撃の朝を迎えた。鶏の鳴き声が聞こえた。ガタガタの滑走路。その前に、飛行服を着て集合した。
訓示の後、カチカチのスルメと杯が振る舞われた。菊の紋が描かれたたばこを生まれて初めてふかし、辛さと苦さに顔をしかめた。
「クワちゃん、あと3時間で『神』になるんだな」。先輩の一人が、そう言った。
いよいよ搭乗となって歩き出すんだけど、足がふわふわで、浮いているみたいなんですよ。大地を踏みしめるのも最後なんだからと、力を入れようとするんだけど、どうにも感触がおかしい。どうやって操縦席に乗り込んだのかも、あまりおぼえていない。
午前5時、いよいよ、その時がきた。エンジンを回し始めた機体のそばで、少年兵が涙で顔をぐちゃぐちゃにして叫んでいた。形見をほしがっていることが、かすかに聞き取れた声でわかった。とっさに腕時計を手首から外して渡した。
滑走を始めると、日の丸を振る見送りの列は、一瞬で視界から消えた。まだ薄暗い空へ飛び立った。
初めて積んだ800キロの爆弾は、思った以上に重かった。それでも、エンジンは、小気味よい音を立てていた。やがて、大海原が目の前に広がった。
■不時着か墜落か
そろそろ米軍機が襲ってくるかもしれない。緊張し始めたころだった。
バスン。
エンジンが突然、不規則に振動を始めた。
バスン、バスン、と続いた。
おかしい。慌てて計器類に目を走らせると、油温計が高温に振り切れていた。トラブル時の対処法を必死に思い出そうとした。
ババーン。
さらに大きな音が響き、後部席にいた機長も異変に気づいた。
突然でした。点火プラグが悪いかもしれないと思い、あれこれスイッチをいじってみたけど、良くなるどころか、ますます変な音がする。そうこうするうちに、馬力が落ちて、黒煙が上がりはじめてね。
沖縄までの行程は、まだ3分の2ほど残っていた。この調子では、たどり着けそうにない。不時着するなら、機体下の800キロ爆弾を捨てなければならない。
このとき、ある出来事の記憶が頭をかすめた。
先に出撃した仲の良い先輩が、エンジン不調で串良に戻った時のことだ。慌てて駆けつけると、先輩は機体の下にあぐらをかき、肩を震わせて泣いていた。
どうせ命を捨てるなら、空母か戦艦、せめて巡洋艦を道連れにしたい。ふらふらの飛行機じゃ体当たりどころじゃない。なのに先輩は、上官たちから、帰れたんだから、沖縄まで行けたはずだ、となじられたそうです。「戦果はどうでもいいんだ。俺たちはただ死ねばいいんだ。クソ」と、先輩は何度も地面をたたいていました。
「どうにかならんのか」。後ろから伝声管ごしに聞こえる機長の声も焦っていた。引き返せば、先輩のようにつらい仕打ちを受ける。どうしたらいいかわからない。
はっきりしていたのは、このままでは、いずれ海面に墜落する、ということだった。
〈九州と沖縄特攻〉 沖縄戦での航空特攻は、九州が主な出撃拠点となった。全国の航空隊から特攻隊員が選抜され、陸軍は知覧や万世(鹿児島)、都城(宮崎)、熊本など、海軍は鹿屋、串良、国分、指宿(鹿児島)、宮崎など、計20基地以上から特攻機が飛び立った。
解説:
1.
特攻作戦は旧日本軍の無能腐敗の結果として出てきたもので、賛美すべき対象ではない.
実際、日本軍は米軍の本格反攻以降、終始一貫、殆ど一度も戦闘に勝利したことがなく終末を向かえその結果特攻作戦が出てきた
2.
しかし、大西瀧治郎以下、特攻作戦に従事した人々に対しては、日本も含めて世界中の多くの人々が尊敬を払っているから、大東亜戦争の二つの成果は次のようになると考えることができる
・アジアの植民地解放・独立
・特攻
3.
特攻隊員の三類型は、推察するに次のものである
・勝とうとして出撃
・勝てないのは解っているが、このままムザと負けるわけにはいかないと考えて出撃
・軍に強制されて、または全体の流れに押されて仕方なく出撃
この三類型にいろいろな中間型があると思われるが類型間の優劣を論ずるつもりはない
4.
半ば支那・韓国の出先報道機関と化した朝日新聞は、第三の類型と思われる桑原さんの追想や意見を取上げ、この作戦の悪魔的性質のみを強調するものであるが、朝日新聞中、全体を見通して把握する能力を持った日本人記者は1人もいないのがわかる.
もう1つの参考事例:
特攻魚雷「回天」隊の元隊長であった小灘利春は次のように回想する.
[二十年四月、私は大津島の分隊長として隊員の訓練教育をしておりましたが、すでにこのときまで「回天隊」の出撃は次々に行われ、最初期の士官の中で残っているのは私一人だけになっていました.自分も早く自分の回天で敵に立ち向かいたい、そういうやむにやまれぬ凄い焦燥の気持で連日おりました.
四月はじめ、灯火管制で暗い大津島の士官室に、光突撃隊・大津島分遺隊指揮官の板倉光馬少佐と私の二人だけが向かい合って座っていたことがあります。そこへ一通の電報を回覧板にはさんで、電信兵が持ってきたのです.一読した少佐は、「横須賀鎮守府長官から回天一隊を八丈島に至急派遣するように言ってきた。君行け」と即座に言われました。このとき私に歓喜の衝撃が背骨の下から頭のてっぺん、までズンと一気に突き上げました.これは後にも先にも経験が無いほど、強烈な喜びでした.・・・私たちは機械のように命令に従ったロボットではありません.自殺志願者でもない。戦士であっても生命を軽々しく考える異常者ではないのです.しかし大戦の後半、昭和十九年六月のマリアナ沖海戦で日本海軍の機動艦隊(航空母艦とそれから発進する飛行機を主力とする艦隊で大東亜戦争における日米戦力の中核であった)が敗北して以来、質・量共に隔絶した戦力の差が目の前に大きく広がっていました.・・・自分たちの力で敵を防ぐ.それしか思いませんでした.「散華の美学」とか「靖国神社に祀られよう」などという言葉で自ら死を選び出撃する動機にはなりえません.・・・そのとき海軍の一角に人間魚雷回天が出現しました。我々は、これだ!と思いました.自分の死よりも先に眼前の敵に勝つことを考えました.
この兵器で敵と戦える!一人一艇を持って千人の大艦を倒せる。・・・それ以上のものはなかった・・・]
(「人間魚雷回天はどのように出撃したか」~By片岡紀明~正論02.9)-
これから判ることは、特別攻撃隊員の多くは「端的に勝とうとして燃え上がっていたのである」ということである.この証言はまた、自己超越的な勝利に対する、殆ど形而上的ともいうべき絶大な歓喜というものが、人間において時には可能であることを証明している