.ヒューマニズム・理性と衝動

ⅰ.ヒューマニズムは人道主義(普遍的人類愛)という意味と人類至上主義という意味があるが、この二つは別のものである。以下、文脈の流れの中でこの二つの意味が使い分けられる。

ⅱ.世界は食物連鎖の、生物間共食い構造三角形-(その頂点に人類が位置し、人類の中にも食い合い連鎖の三角構造が存在しているのだが)-が支配している。この現実の中に、神が純粋理性の道徳律を以ってこの世を導いているというような証拠は全くない。実際、我々の歴史は、収奪・強制労働・拷問・処刑・人工的な大量飢餓死・鏖(皆殺し)・戦争・毒ガスと原爆・人種抹消・の連続であり、ヒューマニズムという願望はこれに対する反省から出てきたものではなく、これに対する防衛反応・拒絶反応から出てきたものである。したがってヒューマニズム思想を絶対化・普遍化し、天が人を導く純粋理性の命令であるなどと思い込んでは、それは間違いであり、この天が導く人類進化の必然という思い込みが我々を油断と自惚れに導く。

もしそうなれば、それは虚偽を信仰することであり、その結果、ヒューマニズムは常に我々を裏切るであろう。

ⅲ.我々の諸反応は、次のようなものがある。

 防御(協約加盟)-明日はわが身だからお互いもう人権侵害はもう止めようという事-

そして、打算(保険料の支払い)-いざという時には私も人から助けて貰わなければならないという事-

 時に心底からの慈悲-しかし、可哀想な実例による触発が必要である。何もなくても、自然に無の中から普遍的な慈悲が湧いて出てくるということはない。慈悲の気持は、その時々の真実ではあり、その限りにおける普遍性を持つが、これは蔑視・嫌悪・憎悪の普遍性と対を成すものであり、とても気まぐれで矛盾に満ち、大小の波長と振幅を持って不確かに揺れ動く。普遍的な慈悲が世界を覆い尽くすという可能性はない。慈悲心はその対象が、余り歓迎したくないような気の毒な状態にあるときに湧いてくることが多い。したがって、慈悲心は尊い感情ではあるのだが、慈悲心が旺盛になるという状況は、不幸がそれだけ沢山ある状況でもあり、決して望ましいものではないという意地の悪い現実が存在する-

 生理的な拒絶反応と世界保存の願望、この二つのものの混合-しかし、これは蔑視や嫌悪、民族浄化や優性淘汰の衝動と奥のところで繋がってもいる。虐げられる人種や民族の残酷な状態に対する慈悲と同情の気持は、彼等が自分にとって無害であり、自分から見て惨めであるときに湧いてくる。

しかし、彼等が自分にとって有害で、しぶとく、猖獗を極めているならば、同じ人間同士でもまた話は違ってくる筈だ。

 自覚(宇宙内自負心とも云う)の作用

状況を引き受けたがる内部の傾向。その純良なものはとても高い領域にまで我々を導き得る。

我々は虐待や飢餓、大殺戮や虐めの現場、などを見ると可哀想だと思うが、反面、見ないで立ち去りたいとも思うし、時にはいい気味だとも思う。

しかし、立ち去った後、何となく自分が何かに屈して逃げたような気持になる。それは良心から逃げたのではなく、自己本来の面目からの逃走であるように感じる。

この場面では理性の先験的法則が出てきているように見えるが、その淵源は我々の先天的な自尊心という本能であり、本能が理性的に振舞うのであって、理性が本能を産出する訳ではない。

 負い目の気持-これは反省ではない。極悪な所業をしたために非難され、糾弾され、自身が腐敗したために弱くなり、報復の恐れに慄き始めた兆候として負い目の意識、良心の疚しさが出てくる。

弱気になった残忍な強者が、旗色が悪くなったためにあげる泣き声の一種である。

しかし、この良心は非常に狡猾であり、本当に悔恨しているかのように、他人だけではなく自分自身をも欺く。悪いことをした者は良心の疚しさや負い目の意識に囚われなければならないという普遍法則はない。良心の疚しさや負い目の意識は、(当たり前のことだが、)それに運悪く取り憑かれた奴だけが取り憑かれるのである。実際、家畜類に対しては、使役し、最後に屠殺をして食肉の用に供し、あるいは時に愛育するという矛盾に関して何も反省はされない。それは動物からの報復がないと思っているからであり、実際、動物は人間のように報復すると言うことはない。

(動物は苛めたり脅かしたりすれば怒って攻撃してくるであろう。しかし、これは人間のするような計画的報復ではない。)

人間対人間の間においても、この不安が存在しなければ、ということは相手が半分家畜程度にしか思われなければ、動物に対すると同様であり得る事は、(現在進行中のものをも含めた)我々の歴史が示している。

ⅳ.世界対称性構造が我々の理性を規定する。その逆ではない。

我々の衝動が我々の理性を産出するのであり、我々の理性が我々の衝動の外から介入するのではない。我々の衝動自体が自ら理性として、理性的に振舞う。

純粋な形式的理性規範などというものは人間の指一本さえも動かす力がない。衝動の道具としての理性が、衝動の命ずるところにより計算し判断し、衝動を制御したり方向を変えたり掻き立てたりするかのように見えて、実は衝動が理性的に振舞っているのである。衝動が自分自身を訝り、私は一体何であるのかと自分に目覚める。

理性の本質は解析不可能な謎に満ちたものであり、熱情が理性の基盤である。熱情や意思のない純理性というものはないも同然なのであり、この事は、純粋認識的な理性においても成り立つ。

経験が全ての理性的な働きの原因としてある。

理性の認識上の形式(存在概念、数の概念、空間と時間、など)は経験からのみ得られる。

我々が経験する現実そのものが理性の認識形式(存在概念、数の概念、空間と時間、など)を自分の中に持っているのであり、それをカントが理性自身と名付けたが、それは単に名前を付けただけのものでしかなかったのである。一つ一つの生命が夫々自分に目覚め自分を主張すること自体が謎めいたものであり、理性と称するものは単にその謎を解釈するだけで謎の本質は明らかでない.

衝動が理性的に振る舞い、その結果、如何に我々の理性と証するものが分裂をしたり、振り回されたりするものであるかという実例を幾つか示せば次の通りである。

 a.優者において負い目の感情、劣者においてルサンチマン(怨恨、嫉妬)の感情を伴って出てくる、平等への衝動は理性をして次のようにいわせる。

「人間が不平等である謂れがない」

一方、誰しもが持つ優越への衝動が理性をして次のように言わせる。

「一切の関係は差別関係に他ならない。優劣の差を無理に消去して平等にするならば、これは新しい不平等の導入に他ならない。平等であるべきなのは優越しよう努力する権利における平等であり、結果の平等ではない」

 b.ヒューマニズムという理性は、慈悲や愛、または「明日はわが身だという」切迫反応、このいずれかの助力がなければ本当に本気にはなれない

そして、この二つとも人間の感情や衝動なのであり、理性自体ではない。

 c.大小民族の同権に関する信念-人種、階級、そして、個人間の関係においても差別、支配、収奪が現に存在していて、この信念はこの現実に対する対抗として発生した。この二つのものの拮抗は世界の対称性構造がもたらす拮抗であり、優越しようとする衝動と、優越者を自分のレベルにまで引き摺り下ろそうとする衝動との間の葛藤相克であり、勿論、これは理性自体が生み出したものではない。

 d.人身の尊厳-これは我々が有限の、簡単に破壊され得る、一回だけの人身を持つことに対する我々のあらゆる打算と感情と本能の表現であるが、それはいかにも純粋理性であるかのように装う。

 e.基本的人権-人権は永久に侵害される。

そうすることによって政治と経済と暴力とが動いてきた。基本的人権はこの侵害があまりにも残忍で、大規模に展開されていることに対する防御・安全弁として実用的に考え出されてきた。これは実用上の知恵であって絶対理性の産物ではない。

 f.理性が働くとき、一つ一つの理性の表現は夫々に特有の衝動を持つ。理性はこの衝動が何故選択されたかを説明する。しかし、それは説明なのであって産出ではないのである。理性が我々の行く先を指令する力は、我々自身が願望する完全性を目指す所の、無に対する有の戦いであり、理性という姿を借りて自己を展開する我々の実存衝動である。

決断過程において、我々がいろいろに考え、迷う過程を理性的過程と呼ぶ。そして、決断自体は理性とは呼ばない。決断は決断と呼ぶしかないような我々の内なる何者かの作用である。

ⅴ.打算理性と認識理性と道徳的価値判断理性、この三つが全く違うものである。打算理性は損得欲望上の計算の道具として働く。そこには認識衝動や道徳的な情熱が存在しない。認識理性は認識衝動の表現形式であって損得勘定や道徳的情熱がない。

認識理性から認識衝動を取り払い、色々な欲情や道徳的な熱情をそれに付け加えれば、認識理性が損得勘定に転換するなどという筈もなく、認識理性から道徳的な理性への転換が起きるなどということもない。大体、認識することそのものへの盲目的な衝動・情熱を欠いた認識理性などというものを我々は表象することができない。

価値判断-即ち、存在の価値を標的とする精神の働きは、精神の全体が価値的に感応する。

これは欲望の道具としての打算知能や推理・認識のための理知の働きとは全く異次元のものであって、人間の全ての能力を総動員する存在の状況である。純粋認識理性が単独で、しかも、あらゆる経験に先立って(a-prioriに)、倫理行動上の判断を下すということはない。

認識理性の対象は経験である。数学や科学や哲学の認識理論が経験に先立つ純粋理性自体の形式であるのか、それとも経験対象そのもの本質的な属性であるのかという質問に答えを出す方法はない。

何となれば、経験と理性の認識形式は常に一緒に、同時に出現していて分離する方法がないからである。

理性の形式によってしか我々が世界を把握できない以上、経験の基底にある、我々にとっては知ることのできない「物自体」(カント)と称する世界などという奇怪な概念を提示してみたところで、それは我々にとって何者をも意味せず、我々の世界認識に何者をも付け加え得ない。

一方、道徳的・価値的な理性の働きは、本来が盲目であり、それ自体が自らの由来を知らないような、自己と世界の完全化を願うかのような衝動~(=対等であるとか、機会の平等であるとか、逃げをうたないで引き受ける事であるとか、向上だとか)~が指示する目的に我々の願望や行為が合致しているかどうか、どうしたら合致できるのか、などを追及し、現状を打開するように働く。

何を以って向上とするかはさておき、人が向上を取るとき、実存が向上を(理性的というスタイルを持って)選好したのであるか、理性が向上を(選好という感情抜きで)直接に実存に対して指令したのであるかという質問に対しては、この二つは~(理性と実存とは)一緒に、同時に出てくるから解答することができないし、回答を出しても意味がない。

認識の作用を司る理性が、このような認識とは異質の命令をどうして紡ぎ出すのであるか。

カントはこれを説明できたように言うが、何もできていない。理性は完全への本能によって方向付けられている本能の形式、本能の道具なのであって、その逆ではない。

認識の場合でも、認識しようとする盲目的な衝動が存在している。それは知り尽くした上で、何でそのように知って、別なように知り得なかったのであるか?と問い、一体誰がこう知らせてくれたのであるか?と問い、挙句には知るということを自らが無の中から創造したがるにまで至る。しかし、答えは一つとして得られないであろう。

ⅶ.いつの日か、道徳に関する普遍的な理性の定言命令が世界を覆い尽くす日が来ることを願望しても無駄である。

我々はいつでも登頂の途上にあり、少しでも岩石を掴んでいる手を緩めればすぐに奈落の谷底に転落して行くような状況の中に、普遍的に置かれている。