.自分の唯一絶対性と材料性ⅰ.神の視点から見ると個々の生命(必ずしも人間の生命に限定されない)は神のお遊びの材料である。

そのお遊びの仕方はまことに意地が悪く、素直ではない。(さすがは神様だ)

不公平―そうすることが始めからの目的であるかの如く

特別優遇、または特別虐待―何故かは不明で、そうしないとお遊びが成立しない。大体、このお遊びは気まぐれで残酷、信頼性は全くない。(理由がないお遊びであるのだから元々信頼性などが有る訳ない)

得をした者は得をしたまま(もっとも、その得を棺桶の中までは持っては入れないが)、損をこいた者は損をこいたままに、夫々の者共がその思いを保つ(いとま)もなく土に還元分解して、永劫流転の物質の巨大な流れの中に埋没し、否!埋没ではなくて消滅し去り永劫の無と化して伝えられることもなく、貸借表が均衡する最後の審判などはやっては来ない。

(最後の審判だと?笑わせちゃってくれちゃうではないか。大体そんなものが在るというのであるならば、最後ではなくて始めからやれこの野郎!気を持たすんじゃねぇ)

ある者には素晴らしい恩寵ともいうべき幸福、多くの者には陰惨な死、味気のない人生、希望のない辛い毎日、突如たる中断、荒々しい淘汰。

互いに殺し合って、あるいは一方的に殺し捲って、殺した方が殺し(どく)で、殺された方が殺され損で、そのままに一切が流転消滅の彼方へ。神の前に全ては等し並みに、現象の一環として、依怙贔屓などは一つも無く、ただ材料の無神経な捏ね合わせ遊びが行われるだけだ。由緒など何も無い。

百億兆光年にわたる暗黒の空間に物凄く渦巻いて無意味に展開する魂無き、荒涼たる物質の現象。

その流れ去り再び還らず、何者によっても記録される事の無い過程の中の現象として生成死滅し続ける我々の生命。~それも太陽系が燃え尽きるまでのことだ。その後いってぇ何処で何が起きるのであるか。

(注意)~(我々の住む宇宙ではない宇宙が存在し得る。しかし、その宇宙は我々の住む宇宙と時間・空間を共有しないものであるから、元々どういうものであるかをイメージしたり定義したりすることができない。それは何時?何処で?という問いかけを拒絶している。宇宙の果ての、その先の、そのまた先の・・・と際限なく求めて行けばいつか出逢えるものでもない。我々の宇宙に対する位置関係というものを元々持っていないからだ。時間的にも同様、何億兆年待てばいつか出現するとか、何億兆年前にかつて存在したというものではない。)

ⅱ.自分は自分にとって唯一のものであり得る唯一つの存在で、宇宙の中心であり、唯一の意識である。

ゆえに絶対万能を欲し、不老、不死、不傷なる永久の命を願う。己の死とともに全宇宙が消滅する。

その後私以外の何が存続したとしても私にとってはないと同じである。何となれば、私がもう無であるからである。人類のため?憂国?子孫のため?次世代への遺産だと?・・・名を残したいか。身すぎ世すぎのための看板じゃないのか?高々が自分の(つら)につけた自分の符号であろうが。

私が人類の一員だ。故に人類の尊厳などという。

私の命は地球よりも重いから多分、人命は地球よりも重いのであろう。

我々は現在、人種と国家の中にいる。しかし、その中にいるからそれを愛するのではなく、自分を愛するから人種や国家を愛し、こだわる。

愛国というものは自己愛の極大なものであり、無私の極大なものではない。自分が人種や国家という抜き差しならないレッテルを背負っているために国の能力や国の体面にこだわる。

ⅲ.我々は芝居をしようとする。自分を世界に刻印したいと思う。今の評判、もう少しスケールを大きく取れば国の歴史、世界の歴史に残りたがる。

ご丁寧にも自伝を書いて発表するなどという儚いことに縋ろうとする人も少なくない。

(しかし、誰もこの衝動を嗤う資格はない)

だが業績もこの太陽系や宇宙にとって何ほどの意味もなく、忘れ去られ消滅する。しかし、我々は通常そこまでは意識はしない。我々は無意識の裡にこの地球上の生命が紡ぐ世界歴史が永遠に続くものであるという前提によって支えられている。しかし、真に我々の有限性というものを知るならば、我々は一人一人が宇宙内でただ一回限り、ただ一人存在することから来る自分だけの、知られる必要のない宇宙内精神において、自分の行動について独り自足する術も習得しなければならない。

ⅳ.人間の尊厳-確かに人間は地上の動物の中では桁違いに進化している。しかし、その進化は正と負の両方向に向けて進んできた。宇宙生成の目的が人間の尊厳のためにあるなどという事を誰が決めたのであるか?誰がどうやって証明する?そう信じればとても快適で、都合が良いのだからだとしても、未だ証明されない事を証明されている真理であるように言えば嘘は嘘だ。

しかし、どんなに都合が悪くとも、この場合嘘よりは真実を―。

本当は単なる自惚れや願望に準拠して、自己正当化をしようとして次のように言っているだけのことなのだ。

「私は私自身にとって大切である→私の命は尊厳があるものと考えたい→私は尊厳である→他人も同様である筈であるから人間一般の尊厳がある」

あるいは、

「我々は人類である。故に人類は尊厳であり地球は人類のためにある」

実際、人類は地球にとって有益な乳酸菌などではなくなっている。人類は地球のバランスにとってがん細胞やエイズウィルスに似た働きをしてきている。

我々は人類が利用するために地球が存在するなどと考えてはならず、もっと謙虚にならなければならないような最後の時に近づきつつあるのだが、全人類が謙虚に成る可能性はゼロだ。しかし、我々はその試みを放棄するわけには行かない。

ⅴ.生命は宇宙が己自身を知ろうとして目覚め、起き上がったものである。一つ一つの生命の夫々に全宇宙の意思が込められていて、宇宙は生命への分裂という形によって自己を表現しようとする。

その基本は混じりの無い自己愛であり、生命自体がこの宇宙全体の、自己確認現象の一つの試みである。

この自己確認は認識行為ではない、こう成りたい、こうしたいという意欲展開であり、この意欲は永遠不動の状態に達することを望み、関係の中で勝とうとし、万能であることを欲する。

唯一者であろうとする欲求は我々を取り巻く諸制約に対する我々の反抗と、諸制約を克服しようとする我々の欲求である。しかし、逆に存在は関係によって存在し得るのであるから、我々はその関係から生ずる諸制約がなければ存在し得ないのであり、したがって、この欲求は終りのない運動として自分を展開し続けなければならない構造になっている。

我々にとって、水や空気のようにどうしても必要な関係性の内で最も我々を捕らえ、惹き付ける関係性は、優位と支配と所有であり、愛ではない。

(愛と憎悪とは関係性自体ではなく、諸関係に付随して私達が持つ情感の一対である。しかし、愛と憎悪とは互いに相反しながら互いに必要とし合うような対称性関係にない。愛の拡張は難しいが、憎悪は自然に自己増殖をする)

この力への意思の強さは生物の進化に比例して増加し、人間において最も極大なのであるから誰にも抵抗できない。ただ、多くの人々は程々にあきらめているので何とか収まっているのである