気まぐれな梟

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 今日は井上陽水の「感謝知らずの女」を聞いている。

 

[1]中央貴族の地方での武士化と古代地方氏族

 

 桃崎雄一郎の「ちくま新書1369 武士の起源を解きあかす(筑摩書房)」(以下「桃崎論文2」という)は、実体としては古代地方豪族であったのは、中央の有力武士の末裔と称してきた中世武士だけではなく、中央の貴族が土着することで生まれた中央の有力武士自体が、実体としては古代地方豪族であったという。

 

(2)平高望

 

 平氏一族は、将門の乱が勃発した一〇世紀前半の段階で、下総や上総・常陸などに勢力を確立していたが、なぜそのようなことが可能だったのか。

 

(a)坂東平氏の急速な武士化

 

1)平氏の「平」は平安京の平


 高望王が臣籍降下した事情について、長門本「平家物語」には次のようにある。


 彼(葛原)親王の御子高見王、無官無位にして失せ給ぴぬ。其御子高望王の時、寛平二年五月十二日に始て平朝臣の姓を給はりて上総介に成給ぴてより此かた、忽に王氏を出て則人臣に列なる。其子鎮守府の将軍義〔良〕茂、後には常陸の大掾国香と改む。


 高望の臣籍降下は寛平元年(八八九)五月一二日だ、という右の伝承と微妙に符合するように、「日本紀略」には一年前の一日後に「五人に平朝臣の姓を賜った」とある。

 

 天皇が築いた都の名を子孫が姓とする事例があり(近江大津宮の天智天皇と子孫の淡海氏、飛鳥浄御原宮の天武天皇と子孫清原氏など)、桓武自身が長岡京時代に儲けた庶子に長岡姓を与えたことを踏まえると、平姓は、平安京に都を定めた桓武天皇の子孫を意味すると解釈するほかない。

 

2)平高望の子良持は都と坂東を往来していた


 高望が赴任後に土着したかも不明だ。むしろ、子の良持が就いた鎮守府将軍は(「将門記」)、京の中級貴族を任命して京から下向させるのが普通なので、任命時に良持は京にいた可能性が高い。

 

 ただ、坂東に所領(田地)があったのも確かで、彼らは京と坂東の両方に拠点を持ち、どちらも本拠と決めずに適宜往来していた(都鄙往還という)と考えざるを得ない。それは土着とは違うので、「留住」という当時の言葉で区別して呼ぶ専門家が多い。


 とはいえ、高望の子の国香が常陸大掻、良兼が下総介、良持が鎮守府将軍と、兄弟いずれも坂東・奥州の地方官となり、しかも国香・良兼が坂東に住み着いた事実を見れば、高望の子らが意図的に、坂東に軸足を移そうとしていたのは明らかだ。

 

3)平良持は武人であった

 

 良持が鎮守府将軍となったことは、別の意味でも重要である。鎮守府将軍は陸奥国の胆鵬城に置かれた鎮守府の長官で、元来は鎮守府将軍といい、次官の鎮守府副将軍とともに、蝦夷の反乱を想定した防備に専従した。それは国司と違って純粋に軍事に専従するので。武人が登用される必要があり、奈良時代以来、大伴・佐伯・坂上・紀・小野氏など、代々武人を輩出して名高い氏族から登用されることが多かった。したがって、平良持が鎮守府将軍であった事実は、彼が武人と見なされた明証である。

 

 葛原親王・高見王・平高望の三代で一度も武官にならず、武人の片鱗も見せなかった平氏が、高望の次代には「武士」化を成し遂げていた。これほど急速で飛躍的な「武士」化は、何によって可能なのだろうか。

 

(b)婚姻関係から拡大した「将門の乱」

 

1)「将門の乱」の発端は相続争い


 将門の乱の顛末を記録した「将門記」や「将門合戦状」(「皇代暦」に引用)を総合すると、騒乱の発端は平将門と伯父平良兼の対立だったようだ。


 対立の原因は、「今昔物語集」によれば、将門と伯父良兼の対立の原因は「故良持が田畠ノ諍」だという。将門の父良持の遺産の田畠の相続権を、子と兄の間で争ったのなら、いかにもありそうな話だ。


 「将門合戦状」によれば、良兼が深く将門を憎み、まず両者が戦った。「将門記」を抄出(要点を書き抜き)した「将門記略」の冒頭部によれば、良兼と将門が「相違(決裂)」したのは延長九年(九三一)という。それが「将門合戦状」のいう、二人の合戦があった年なのだろう。

 

2)一世代で三重に結ばれた平氏と源護との姻戚関係


 「将門合戦状」によると、四年後の承平五年(九三五)二月、将門が平真樹なる人物に「語らはれて(誘われて)」平国香・源護と合戦した。国香は高望の長男で、将門の伯父だ。


 しかし、将門と国香・護ら自身にも、正面衝突する理由があったはずだ。鍵は源護の方だろう。彼はほかの記録や系図に一切登場しない。ただ、一字名の伝統を持つ嵯峨源氏か仁明源氏に違いなく、世代から見て嵯峨源氏だろう。彼は前常陸大掾(国司の第三等官)で、朝廷が再三禁じてきた、現地に居座って地方社会を壟断する元国司の王臣子孫の典型だ。

 

 「将門記」には、「故上総介高望王の妾の子平良正は、また将門の次の伯父なり。しかうして介良兼朝臣と良正とは兄弟の上、両乍ら彼の常陸前椽源護の因縁なり」「(平)貞盛は寔に彼の前大掾源護并びに其の諸子等と皆、同党の者なり」とある。良兼と弟良正は護の「因縁」で、護は良正の「外縁」で、「良兼は彼の姻唖の長」で、国香の子貞盛も護やその子と「同党」だという。この「因縁」「外縁」「姻唖」は、すべて婚姻関係を意味する。

 

 良兼が護の婿であることは明らかだ。良正の母は源護の娘とは別人(高望王の妾)だから、護が良正の「外縁」であることは、外祖父ではなく舅を意味しよう。また貞盛は、「凡そ将門は本意の敵に非ず、斯れ源氏の縁坐なり(国香・貞盛親子は将門に本来敵意を持たないが、源氏との縁で巻き込まれた)」と回顧した。それほど強い「縁」は姻戚関係と考えるのが自然だ。源護は三人の娘を、高望の子の三兄弟(国香・良兼・良正)に嫁がせたのである。

 

3)姻戚関係による将門包囲網の形成


 たった一世代で三重に結ばれたこの姻戚関係は、あまりに密接で強力だ。その絆の強力さが将門の乱を拡大させた。一連の合戦の発端は将門と良兼の合戦で、その良兼は護の婿だった。良兼は、将門との合戦で煮え湯を飲まされ、舅の護に共闘を頼んだのだろう。そうして将門との敵対関係に巻き込まれた護が、良兼に加勢した息子の扶・隆・繁らを全員将門に殺されてしまった。護は将門に報復したい執念に取り憑かれ、今度は別の婿の国香を巻き込んだ。国香と将門が本来の敵でないのに戦った、とはそういう意味だ。


 国香が将門に殺されると、護は別の婿二人に希望を託し、最初の発端を作った良兼に再び声をかけ、弟の良正も巻き込んだ。良兼は将門との対立に区切りをつけ、しかも護の住む常陸でなく上総に住んでいたため消極的だった。しかし良正は血気にはやり、「独り因縁を追慕して(一人で姻戚関係を尊重して)」常陸に来て、国香や源扶らが戦死した八ヶ月後の承平五年(九三五)一〇月、常陸の新治郡で将門を攻撃した。

 

 ところがこれも将門の返り討ちに遭い、良正と従者は多大な被害を出して逃亡した。良正はそのまま上総の兄良兼のもとへ走り、決起を促した。良兼も、甥が伯父を蔑ろにする現状を容認できず、男の源護からも恨み言を聞かされ続け、国香亡き今、「姻唖の長」=婿の代表として護に「与力」せねばと決意した。良兼・良正は将門に再度挑戦したが、また逆襲されて逃亡した。


 良兼の心に芽生えた将門への敵意は、良兼から舅の護に伝染し、護から別の婿の国香・良正に伝染し、良兼に再度伝染して彼の敵意を高め、護とその婿の平氏三兄弟を将門との合戦に駆り立て、将門包囲網を形成した。これが姻戚関係の力だ。

 

 将門の乱の前半は平氏一族の内紛だと専門家はいうが、それは結果論で、本質を見誤っている。最初の良兼との戦闘が以降の戦闘へと次々に飛び火・拡大したのは、すべて姻戚関係によるものである。そこが問題の本質で、平氏の内紛に見えるのは、護の婿が偶然、三人とも平氏だったからにすぎない。

 

 むしろ。国香の子の貞盛は、将門との戦いを貫徹する意志がないと繰り返し表明した。父を殺されてさえも、平氏一族の血縁関係は、相互の争いを抑止する方向にきちんと作用したのである。

 

4)在地の姻戚関係に取り込まれることが、平氏が坂東に土着(留住)して馴染むために不可欠の条件・原動力だった


 良兼が躊躇しながらも将門との再対決に踏み切ったのは、源護の「姻唖の長(婿代表)」としての責任からだ。相手に恨みもなく、乗り気でなくとも、血縁関係より優先して共闘せねばならない立場に人を追い込む強力な姻戚関係に、高望の子世代は絡め取られていた。

 

 なぜか。それは、そうした姻戚関係に取り込まれることが、平氏が坂東に土着(留住)して馴染むために不可欠の条件・原動力だったから、と考えるのが自然だ。


(c)平氏の坂東土着(留住)を可能にした姻戚関係の強力さ


 ここに高望の子世代が坂東に一代で勢力を確立できたのはなぜか、という問いの答えがある。

 

1)姻戚関係による現地勢力との結託

 

 高望はよそ者で、特別な地位も後ろ盾もなく、任用国司や郡司富豪層から反抗され命さえ狙われる受領を四年務めただけで、武芸や軍勢も持った形跡がない。その無力な彼が。子世代で常陸・下総・上総に跨がる広域に勢力を伸ばせた理由は、現地勢力との結託以外に考えにくく、その手段として姻戚関係ほどふさわしいものはない。

 

2)姻戚関係による出自ロンダリング


 古代・中世では、就くべき仕事や能力など、人生の大方は誰の子かで決まる。父が貴姓か卑姓か、京戸か否か、京官加地方官か、特殊技能者(学者・武官・法律家・医者など)か否か、等々。しかし、この氏族の性質を、姻戚関係を使えば後から書き換えられる。


 よそ者の京下りの王臣子孫Aは、現地有力者Bの娘と結婚すれば、姻族(姻戚関係で一族となった者)としてBの一族に取り込まれ、現地人待遇を得られる。そして生まれた子は現地有力者Bの血を引く、生まれながらの現地有力者だ。

 

 一方、「礼」思想が浸透した日本では、親は無条件に尊いので、現地有力者Bは王臣子孫Aの義理の父として尊重される。まして娘が子を生めば、その子は生まれながらに貴姓の王臣子孫だ。


 このように、王臣子孫と現地有力者の通婚は、互いに自分にない素質を補い合う。そして間に生まれた子は、生まれながらに王臣子孫の血筋と現地有力者の血筋を、つまり父方と母方の有利な氏族的特性を「いいとこ取り」したハイブリッドの血統を得られる。

 

3)妻問婚(招婿婚)により得たもの

 

イ)妻の実家で生活基盤


 ここで、当時の婚姻が妻問婚(招婿婚)だったことが重要だ。この形は、京下りの王臣子孫の現地土着(留住)に極めて有利だった。王臣子孫は身一つで現地に下り、現地有力者の娘と縁談がまとまれば。妻の実家に居座って、妻の実家の経済力・政治力に依存して生活できる。

 

ロ)舅の財産の相続

 

 しかも、妻問婚では財産が舅から婿にも相続される。この流れに乗れば、高望のような無力なよそ者でもすぐに生活の資と住居を得られ、現地社会に新たな現地人として受け入れられ、妻の実家の影響力を十二分に駆使して現地でのし上がれる。

 

ハ)王臣子孫の身分の取得


 一方、卑姓の現地有力者は、高望を婿に迎えれば、間に生まれる自分の孫が、桓武天皇の玄孫(孫の孫)という、地方では圧倒的な貴姓の王臣子孫になれる。同格の郡司富豪層がせめぎ合う地方社会で、孫が一階層上の貴人、つまり郡司富豪層を王臣家人として使役する王臣子孫になれれば、主導権を獲得する上で大きな武器になる。

 

 しかも高望は一定数の王臣家人を抱えていたはずで、高望を婿にすれば、その王臣家人の勢力と融合できる。

 

二)京とのパイプの確保


 しかも高望は亰にパイプがあり。現に孫の将門は摂政藤原忠平と私的主従関係にあった。そこまで強力な権門へのパイプは、地方の力関係に大いに影響する有利なカードだ。

 

ホ)坂東にある王臣子孫の財産の取得


 そして祖父の葛原親王の代から蓄積・継承されてきた特別な財産、特に坂東の牧や空閑地は魅力的だ。空閑地は墾田にすれば莫大な収益を生むし、騎馬文化が強く根づいた坂東で牧を持ち、自前で馬を生産・維持できることが、どれほど有利かはいうまでもない。

 

(d)北関東の卑姓の土着有力者の血が流れていた将門


 京下りの王臣、特に高望との婚姻にこれだけ利点があれば、現地有力者は競って彼を婿に迎え入れただろう。高望には少なくとも二人の妻がいたが(正室と、良正の母である側室、誰の娘かはわからない。 

 

 ただ、ある系図に将門の「母は犬養春枝の女」と記されていることは興味深い。下総には確かに犬養氏がいて、史実を反映している可能性があるからだ。


 天平勝宝七歳(七五五年)に、下総少目で防人部領使(防人の統率者)の県犬養宿禰浄人が、九州防備の防人に動員された東国百姓の歌一一首を取りまとめている。県犬養氏の拠点は京だが、下総少目の彼が下総に子孫を残した可能性はある。

 

 もっとも、記録上の犬養氏はほとんど県犬養氏だが、将門の外祖父という春枝はただの犬養姓だ。そこに注目すると、承和一〇年(八四三)、下総ではないが上野国で、「丈部臣」姓を賜った犬養子羊・真虎という兄弟がいた事実が興味深い。東国には確かに、犬養姓の人がいたのである。


 しかも、彼ら兄弟の丈部姓は、将門の「駆使(身分の低い下働きの従者)」の丈部子春丸と共通する。彼は「将門陣営の内情を漏らせば「乗馬の郎頭(騎馬する資格を持つ郎等)」に取り立て、米穀や衣服を豊富に与える」という良兼の甘言に応じた人だ(「将門記」)。

 

 彼の存在は、次の筋書きを推測させる。丈部に改姓した上野の犬養氏の同族に犬養春枝があり、彼が娘を平良持に嫁がせ、彼女が将門を儲けた。そして外祖父犬養春枝の同族の丈部氏が、将門やその母の従者に付けられ、その一人が丈部子春丸だったのではないか、と。


 もしそうなら、将門には半分、北関東の卑姓の土着有力者の血が流れていたことになる。しかも将門の弟の将種には、その確実な証左がある。彼は陸奥権介の伴有梁という者の婿に収まり、陸奥国に住み着いて、将門の乱が鎮圧された直後の天慶三年四月に有梁と反乱を起こした。将種は乱に一度も姿を見せないから、ずっと陸奥に住んでいたのだろう。

 

 その理由は、鎮守府将軍の平良持が陸奥に赴任した時に、現地人と通婚して儲けた子だから、という以外に考え難い。

 

 将門・将種兄弟の父良持も同様に、坂東で生まれたのではないか。

 

 桃崎論文はこのようにいう。

 

(e)坂東の平氏も、その実体は古代氏族であった

 

 桃崎論文は、平氏一族は、将門の乱が勃発した一〇世紀前半の段階で、下総や上総・常陸などに勢力を確立していたが、なぜそのようなことが可能だったのかと問いかけ、すでに坂東で勢力を持っていた現地勢力の一族と婚姻関係をもって結合し、その在地ネットワークに参加していったからであった、と答えている。

 

 「尊卑分脈」によれば、平高望には八人の子がいたとされる。

 

 そのうちの三兄弟(国香・良兼・良正)は、仁明源氏の源護の娘と婚姻していた。

 

 源護の子の扶・隆・繁らは全員、将門の乱の過程で平将門に殺されてしまったので、源護のネットワークとその勢力基盤は、源護の娘の夫である平高望の子の三兄弟(国香・良兼・良正)が継承したと考えられる。

 

 こうした源護の娘との婚姻関係やそれを通じた源護のネットワークと勢力基盤の継承こそが、平高望の子の三兄弟(国香・良兼・良正)は、将門の乱が勃発した一〇世紀前半の段階で、下総や上総・常陸などに勢力を確立していた理由であった、と考えられる。

 

 源護が仁明源氏で仁明天皇の子であったとすれば、桓武天皇の孫が仁明天皇であり、平高望が桓武天皇の孫の子であるので、源護と平高望が同世代となり、源護の娘と結婚した平高望の子の三兄弟(国香・良兼・良正)は源護の子の世代となる。

 

 源護の坂東土着が平高望の子の三兄弟(国香・良兼・良正)の坂東土着に先行していたとすれば、源護自身も、在地の古代氏族の娘と婚姻関係をもって、その古代氏族の在地のネットワークを継承することによって、坂東の在地に勢力基盤を形成していったと考えられる。

 

 そして、平高望の八人の子のうち、源護の娘と婚姻した三兄弟(国香・良兼・良正)以外の五人も、それぞれ在地の古代氏族の娘と婚姻して、その古代氏族の勢力を継承していったと考えられる。

 

 桃崎論文が指摘するように、将門の母は下総国相馬郡の在地の古代氏族の犬養氏の娘であり、将門の弟の将種は父良持が鎮守府将軍として陸奥に赴任した時に現地人の娘と通婚して儲けた子で、陸奥権介の伴有梁という者の婿に収まり陸奥国に住み着いた。

 

 また、将門の父の良持自身も坂東で生まれた、つまり高望が上総介として上総に赴任したときに、上総の現地の古代氏族の娘と婚姻して生まれたのが良持であった、と考えられる。

 

 そうであれば、坂東の平氏も、その実体は古代氏族であったと考えられる。