気まぐれな梟

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 今日は井上陽水の「愛は君」を聞いている。

 

[1]中央貴族の地方での武士化と古代地方氏族

 

 桃崎有一郎の「講談社選書メチエ826 中世武士団偽りの血脈(講談社)」(桃崎論文1)によれば、秀郷流藤原氏や利仁流藤原氏、平氏、源氏などの中央の有力武士の末裔と称してきた中世武士には、中央の有力武士の女と古代地方氏族の男の婚姻を契機として、古代地方氏族の男が外祖父である中央の有力武士の養猶子となることによって、男系では古代地方氏族の出自であった場合が多く存在したという。

 

 そしてそれは、古代地方氏族が、都から下向してきた中央の有力武士のネットワークに参加することで、地方での勢力の統合と、中央での影響力拡大を狙う動向であり、中央の有力武士の末裔と称してきた中世武士の実体は、古代地方豪族であったという。 

 

 桃崎雄一郎の「ちくま新書1369 武士の起源を解きあかす(筑摩書房)」(以下「桃崎論文2」という)は、実体としては古代地方豪族であったのは、中央の有力武士の末裔と称してきた中世武士だけではなく、中央の貴族が土着することで生まれた中央の有力武士自体が、実体としては古代地方豪族であったという。

 

 そして、藤原利仁、平高望などについて、彼らと古代地方氏族との結合について、以下のように述べる。

 

(1)藤原利仁

 

(a)伝説的武人としての藤原利仁

 藤原利仁は中世の伝説的な武人四人組(坂上田村麻呂・利仁・藤原保昌・源頼光)の一人で、南北朝時代に書かれた歴史書「増鏡」などは、「たけき武士の起こりを尋ぬれば、いにしへの余五・利仁などいひけん将軍どもの事は、耳遠ければさしをきぬ」と、平維茂(余五)と藤原利仁を武士の遠祖のように紹介する。


 しかし、利仁の実際の活動実績はほぼ不明だ。著名なのは、「今昔物語集」に描かれて芥川能之介が小説「芋」に翻案した話、芋粥を飽食したい五位の某を越前まで連れて行って実現させた話だ。しかし。それは利仁が将軍として活躍した話ではない。

 

(b)藤原利仁の坂東の群盗制圧伝承の史実性

 

1)利仁が坂東に下って群盗の追捕・追討にあたった可能性

 捏造だらけの利仁伝説の中で、一つだけ検討に値する伝承が「鞍馬蓋寺縁起」にある。京の北郊の鞍馬寺の成立経緯を記したこの「縁起」は、一一世紀初め頃に抜き書きされた古い縁起に、さらに古老の伝聞や別の古い記録から情報を増補して、天永四年(一一一三)に成立したと考えられている。つまり、古い史実が収められている可能性が高い。


 その「縁起」によれば、下野国の高蔵山に千人の「群盗」が住み着き、京へ運ぶ調・庸などを奪い始めた。そこで時の天皇は討伐を決意し、大将に天下の誰もが推した利仁を任じた。利仁は鞍馬寺で戦勝祈願してから旅立ち、軍略を駆使して群盗を駆逐したという。


 下野国にも坂東諸国にも「高蔵山」はなく、利仁が下野の国司になった形跡もない。それでも、右の伝承には信憑性がある。

 

 なぜなら、

 

 ①退治の対象が、藤原秀郷(俵藤太)・源頼光伝説のような現実離れした異形の者(百足・鬼・酒呑童子・土蜘蛛など)ではない、

 

 ②鬼退治の対象が「群盗」であることは、利仁の時代(斷鼾朝の頃)には極めて現実的、

 

 ③山賊などでなく群盗という、利仁の時代に実際に、そして最も頻繁に使われた言葉が使われている、

 

 ④京進される調・庸などを強奪するという群盗の行動が。当時の実態とよく一致する、そして

 

 ⑤筋書きに神仏の加勢など超常現象・奇跡の類が現れないからである。

 

 利仁が坂東に下って群盗の追捕・追討にあたった可能性は、認めてよい。

 

2)利仁の受領任命の目的は戦争、つまり群盗制圧


 利仁が下野の国司になった形跡はないが、「尊卑分脈」によれば、利仁は延喜一一年(九一一)に上野介に任じられ、翌延喜一五年(一説に一六年)に上総介に異動し、三年後の延喜一五年に鎮守府将軍となり、さらに時期は不明ながら武蔵守にもなったという。

 

 この官歴の大部分は確実な史料で裏づけられないが、「今昔物語集」の成立までに「利仁将軍」と呼ばれるようになった彼が、鎮守府将軍になったのは確実だろう。


 延喜年間に入っても坂東は騒然としていた。その中で、武人の利仁が、上野の受領を一年だけ勤めて上総の受領に転じ、三年後に鎮守府将軍となったらしいことは、利仁の下向目的を推察させるに十分だ。


 平時ならそれほど短期間で任国を変えないから、利仁の受領任命の目的は戦争、つまり群盗制圧だろう。利仁が上野の受領を一年で終えたのは、目的を達成したか、それより危急の軍事的危機が上総で生じたからだろう。そして鎮守府将軍になったのは、坂東の北に隣接して、坂東の群盗の逃げ場・拠点・供給源となっていた陸奥を制圧するためだろう。


 上総→陸奥という異動は大いにありそうだ。上総は伝統的に俘囚(蝦夷)の反乱が盛んな地域で、上総の安定には俘囚の懐柔・掌握が必須で、それは結局、俘囚の出身地・帰還先である陸奥の制圧へと行き着くからだ。


 なお上野では、利仁が受領だった(らしい)延喜一二年の翌年に藤原扶幹が受領になり、また彼が親の喪を理由に退くと藤原厚載が就任し、二年後に射殺された。圧倒的に強い武人が受領の地位を去り、弱い人物が着任すると、たちまち群盗が活力を取り戻すという構図が窺える。それを防ぐには、武人を受領に任命し続けるしかない。後年、藤原保昌や源平の武士が受領を歴任するようになった理由は、そこにあるだろう。


(c)越前の古代的有力者コミュ二ティと融合した藤原利仁

 

1)母系からくる古い武人輩出氏族の紀氏に起源する武人的資質

 

 利仁の高祖父(祖父の祖父)鷲取は、藤原魚名の子で、秀郷の曾祖父藤成の兄だ。利仁と秀郷は近い同族で、秀郷を武士と認定してよいなら。利仁も疑いなく武士である。

 

 利仁の祖父高房の子のうち、中納言まで昇った山蔭以外は受領で終わり、利仁の父の時長も肥後守だったと正史にある。しかし重要なのは、利仁の祖父高房の方だ。

 

 彼は没伝に「身長は六尺、膂力は人に過ぎ、甚だ意気有り」とあり、身体的に恵まれた武人的資質(大男の力持ち)があった。彼は淳和朝の天長四年(八二七)に美濃介として赴任すると、歴代の受領が恐れた「妖しき巫(民間信仰的な呪術者)」が民に害を与えていると知り、単身騎馬で乗り込んで一派を捕らえて厳罰に処したという。彼は在任中に百姓からの評価が高く、備後守・肥後守・越前守を歴任して、文徳朝の仁寿二年(八五二)に没した。

 

 高房のこうした武人的資質には、外祖父の紀古佐美が関係しているだろう。紀氏は古い武人輩出氏族であり、古佐美自身にも光仁~桓武朝で蝦夷征伐に従事した実績がある。その母方の紀氏から幾分か受け継いだ高房の武人的資質が、利仁の資質の直接的な源と考えられる。

 

2)越前の古代的な有力者コミュニティとの融合


 もう一つ重要なのが、高房が越前守に就任した事実だ。利仁の母は越前の秦豊国という人の娘と伝わる(「尊卑分脈」)。彼女と父時長との縁談は、祖父高房が越前守として赴任したことに由来するだろう。しかも利仁は、芋粥を食べたい五位を越前の自宅に連れ帰った。利仁は「常二彼(越前)国ニゾ住ケル」といわれ(「今昔物語集」)、越前に根を下ろして時々京に出仕する生活をしていた。


 利仁が越前に住んだのは、「越前国ニロノ有仁卜云ケル勢ノ者ノ聟」だったからという。利仁は、越前土着の古代豪族らしき秦氏を母とし、越前土着の(姓不詳)有仁という有力者の婿に収まった。利仁という名前自体が、男の有仁とつながる何らかの縁から名づけられた可能性が高い。

 

 利仁はそうして、越前の古代的な有力者コミュニティと融合した。人に飽きるほど芋粥を食べさせる彼の財力の源は、明らかにそこにある。そしてこの手法は、下野国の秀郷流藤原氏と同じであり、最初期の武士を生み出す根幹的な仕組みだった。

 

 桃崎論文はこのようにいう。

 

(d)古代武人輩出氏族と古代地方氏族との結合による中央貴族の武士化

 

1)古代武人輩出氏族との結合による中央貴族の武士化

 

 桃崎論文が指摘するように、藤原利仁の武人的資質はその祖父の藤原高房に始まるもので、武人的資質からすれば藤原高房の代で武士化したと考えられる。

 

 そして、藤原高房が武人的資質を持ったのは、母の出自が古代武人輩出氏族の紀氏であったことによって、古代武人輩出氏族の資質と環境を継承したからであったと考えられる。

 

 そうであれば、中央の有力武士は、婚姻関係による古代武人輩出氏族との結合と、その結果としての武人的資質の継承によって初めて、武士化できたのだと考えられる。

 

2)古代地方氏族との結合による中央貴族の武士化

 

 桃崎論文が指摘するように、藤原利仁の祖父の藤原高房は、越前守として越前に下向したときに、子の時長を在地の有力豪族の秦氏の女と結婚させ、その間に生まれたの藤原利仁であった。

 

 「今昔物語」によれば、藤原利仁は、「越前国ニロノ有仁卜云ケル勢ノ者ノ聟」であったとされている。

 

 桃崎論文は、利仁は、越前土着の古代豪族らしき秦氏を母とし、越前土着の(姓不詳)有仁という有力者の婿に収まったが、利仁という名前自体が、男の有仁とつながる何らかの縁から名づけられた可能性が高い、という。

 

 桃崎論文が指摘するように、藤原利仁の「仁」は、越前土着の(姓不詳)有仁という有力者の「仁」を取ったものであったと考えられる。

 

 この有仁の姓は不詳とされているが、おそらく越前秦氏の一族であったと考えられる。

 

 藤原高房、時長、利仁の三代は、古代地方氏族の越前秦氏と婚姻関係を結ぶことで結合し、一体化することで、武士化していったと考えられる。

 

 藤原高房が越前に拠点を形成できたのは、古代地方氏族の越前秦氏と婚姻関係を結ぶことで結合できたからであったと考えられる。

 

 この結合は、越前秦氏の側からすれば、越前の群盗を一掃することをつうじて、越前秦氏の越前国への影響力を拡大するとともに、利仁流藤原氏を形成することで、京の中央政界や源氏や平氏などの中央の有力武士との関係を構築し、越前だけに留まらない勢力拡大を可能とするものであったと考えられる。

 

 ここに、藤原高房と越前秦氏の利害の一致が存在した。

 

 このように、中央貴族が下向して、その子孫が武士化するためには、古代武人輩出氏族の資質の継承と古代地方氏族の在地ネットワークの継承・参加が不可欠であったと考えられる。

 

 そして、これらの点については、秀郷流藤原氏や平氏も、同様であった。