ローマ帝国の境界線 (イギリス / ドイツ) | 世界遺産検定のお勉強ブログ(現在休止中)

ローマ帝国の境界線 (イギリス / ドイツ)

植竹です!

今回は
イギリスドイツ
ローマ帝国の境界線

を紹介します!

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公式テキストキャッチフレーズ
拡大し続けたローマ帝国の境界線

ローマ帝国の境界線

イギリス


登録年…1987年
拡張年…2005年・2008年
危機遺産登録…ー

英名…Frontiers of the Roman Empire
仏名…Frontières de l'Empire romain


位置…イギリス(イングランド)北部・ドイツ北部など
経緯…N54 59 33.4 W2 36 3.6
面積…資産527 ha 緩衝地域5,226 ha

登録区分…文化遺産
登録基準…(2), (3), (4)
登録ID…430ter




公式テキスト分類…古代ローマの遺産
公式テキスト掲載ページ…第②巻41p
公式サイトユネスコ本部(英語)

概要
イギリスのイングランド北部やドイツのライン川とドナウ川の間などに残る、ローマ帝国が築いた長城(防壁)の跡です。

構成
ハドリアヌスの長城
紀元2世紀にハドリアヌス帝が、グレートブリテン島北部で相次いだ北方諸族の侵入を防ぐために西海岸のボウネスと東海岸のウォールゼンドを結んで建設させた全長120㎞の防壁です。2年かけて土塁で築かれたこの防壁はその後に石材で補強され、6㎞毎に監視塔を備えた10か所以上の要塞が建設され500~1,000人規模の兵士が駐留して北方諸族の侵攻に備えていました。
ローマ帝国衰退後も有効活用され、17世紀にはイングランドがスコットランドの侵入を防ぐ為にも使われました。現在はところどころにその遺構を残しています。
一番最初に単独で世界遺産に登録されました。
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リメス(2005年追加)
1世紀末にドイツのライン川とドナウ川の間などにドミティアヌス帝が建設させた対ゲルマン人侵攻用の防壁です。総延長は約550kmに及び、幅は約8m、高さ約3mの土塁と深さ2.5mの堀が張り巡らされ、その随所におおよそ60の要塞と900の監視塔が建てられました。なお周辺にはローマ軍に従事した人々の生活集落跡も残されています。
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アントニヌスの長城(2008年追加)
ハドリアヌスの長城の160㎞北、スコットランド内にある全長約60㎞の長城で2世紀中盤にハドリアヌスの長城の代替として厳しい寒さの中2年という驚異のスピードで建てられました。20年ほど使用されたもののスコットランドの攻撃に晒され、最終的には放棄されました。
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歴史
9年
当時のゲルマニアでの戦闘に敗北してライン川まで撤退したローマ帝国の防衛ラインなり、後世になってライン川沿いに防壁が建てられました。

122年には
当時ハドリアヌス帝を悩ませていたケルト人の侵攻を防ぐ為、10年の歳月に及ぶハドリアヌスの長城の建設が始まりました。

142年には
ハドリアヌスの長城の代替として160㎞北に2年かけてアントニヌスの長城が建設されました。

164年
アントニヌスの長城は放棄されました。

197年
再びアントニヌスの長城付近で戦闘が起こり
208年
セプティミウス・セウェルス帝によってアントニヌス長城の補強が命じられました。

260年には
ドイツにおけるローマ帝国の版図が後退した為、リメスは放棄され、次第に忘れ去られていきました。

17世紀には
アントニヌスの長城がスコットランドの侵入を防ぐ目的でイングランドに再利用されました。

19世紀
ドイツのリメスが再発見され研究が進めれらました。

1950年代からは
ライン川周辺の開発が進んだことからリメスの多くの部分が破壊されてしまいました。

1987年
ハドリアヌスの長城が文化遺産として世界遺産に登録されました。

2005年には
ドイツのリメスが追加登録され、ローマ帝国の境界線と名前を変えました。

2008年には
アントニヌスの長城も追加登録されました。


特徴
2国に存在するこれらの防壁は拡大し続けたローマ帝国の勢力の象徴であると同時に、拡張政策を続けることを断念した政策転換点時期のローマ帝国の象徴とも呼べる遺産です。


逸話・伝説
・文化的境界線ではないアントニヌスの長城ですが、軍事境界線としての長城はその後もイングランドとスコットランドの境界線として使われ、今日の国境線にも大きく影響しています。
・ドイツではどこまでも延びるリメスは悪魔の境界線として地域の住民に恐れられていたそうです。
・多くが破壊されてしまったリメスも今日では観光地として多くの監視塔や要塞が復元されています。

登録基準詳細
(2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
(3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
(4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。


関連用語
ローマ帝国
古代ローマがイタリア半島に誕生した都市国家から、地中海にまたがる領域国家へと発展した段階以降を表す言葉である。従って厳密には古代ローマの体制が共和制だった頃を含んでいる。最盛期には地中海沿岸全域に加え、ブリタンニア、ダキア、メソポタミアなど広大な領域を版図とした。
ハドリアヌス
(76年1月24日 - 138年7月10日)第14代ローマ皇帝。五賢帝のひとり。ネルウァ=アントニヌス朝の第3代目皇帝。帝国各地をあまねく視察して帝国の現状把握に努める一方、トラヤヌス帝による帝国拡大路線を放棄し、現実的判断に基づく国境安定化路線へと転換した。
ドミティアヌス
( 51年10月24日 - 96年9月18日)はローマ帝国の第11代皇帝である。
ケルト人
中央アジアの草原から馬と車輪付きの乗り物(戦車、馬車)を持ってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派の民族である。
アントニヌス
(86年9月19日 - 161年3月7日)第15代ローマ皇帝で、ネルウァ=アントニヌス朝の第4代皇帝。
イングランド
グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国(イギリス)を構成する四つのカントリーの一つである。人口は連合王国の83%以上1、面積はグレートブリテン島の南部の約3分の2を占める。北方はスコットランドと、西方はウェールズと接する。北海、アイリッシュ海、大西洋、イギリス海峡に面している。
スコットランド
北西ヨーロッパに位置するグレートブリテン及び北アイルランド連合王国(イギリス)を構成する4つのカントリーのひとつである。
ライン川
スイスアルプスのトーマ湖に端を発し、ボーデン湖に入りドイツ・フランスの国境を北に向かう、ストラスブールを越えてカールスルーエの少し南からドイツ国内を流れ、ボン、ケルン、デュッセルドルフ、クレーヴェなどを通過しオランダ国内へと入ったあと2分岐し、ワール川とレク川となりロッテルダム付近で北海に注いでいる。全長1,233キロ。
ゲルマニア
古代ローマ時代の地名。おおよそライン川の東、ドナウ川の北の地域で、現在のドイツ、ポーランド、チェコ、スロバキア、デンマークとほぼ重なる一帯を指す。
ブリタニア
古代ローマが現在のイギリス南部に設置した属州の一つ。ブリタニアともいう。また属州の置かれた島(現在のグレート・ブリテン島)とその周辺の小群島をも指す。住民は主にケルト系ブリトン人で、属州化以降ローマ人やガリア人、ゲルマン人が主に兵士として渡来した。ローマの支配は40年から410年まで及び、現在のイングランド南部を中心にローマ化が進んだ。

関連遺産

ローマの歴史地区(1980年、イタリア / ヴァティカン)

☆☆植から目線コメント☆☆
長城と言えば万里の長城が有名ですが、
遠く離れたヨーロッパでも国の防衛の為に
似たような長城が建てられていたんですね。
中国のそれと違って今では大部分が
荒廃してしまいましたが当時のローマの
最果てを感じられる場所です。

植竹でした。