ブリュールのアウグストゥスブルク城と別邸ファルケンルスト(ドイツ) | 世界遺産検定のお勉強ブログ(現在休止中)

ブリュールのアウグストゥスブルク城と別邸ファルケンルスト(ドイツ)

植竹です!

今回はドイツ
ブリュールのアウグストゥスブルク城と別邸ファルケンルスト

(また長い名前だこと…)を紹介します!

photo:01


公式テキストキャッチフレーズ
ドイツ・ロココ様式の先駆けとなった華麗な宮殿

ブリュールのアウグストゥスブルク城と別邸ファルケンルスト
ドイツ連邦共和国


登録年…1984年
拡張年…ー
危機遺産登録…ー

英名…Castles of Augustusburg and Falkenlust at Brühl
仏名…Châteaux d'Augustusburg et de Falkenlust à Brühl


位置…ドイツ西部ブリュール
経緯…N50 49 30.1 E6 54 35.2
面積…89 ha

登録区分…文化遺産
登録基準…(2), (4)
登録ID…288




公式テキスト分類…ヨーロッパの城・宮殿・別荘と公園
公式テキスト掲載ページ…第②巻72p
公式サイトユネスコ本部(英語)

概要
18世紀にケルン大司教のクレメンス・アウグストゥスが建てさせた宮殿と狩猟用の別邸であるファルケンルストからなる文化遺産です。



構成
アウグストゥス宮殿
18世紀にケルン大司教で選帝侯のクレメンス・アウグストゥスが建てさせた宮殿で設計はフランソワ・ド・キュヴィイエによるもの。当初は中世風の質素な宮殿でしたが兄のバイエルン選帝侯カール・アルプレヒトから今風で身分にふさわしいものを、という助言を受けて、富や権力を象徴する派手な宮殿に改築されました。
宮殿の階段室には男女像の装飾壁柱があって、壁や廊下は化粧漆喰や大理石の装飾が施されています。更に天井には華麗なフレスコ画が描かれるなど、ドイツにおけるロココ様式の先駆けであり最高傑作と言われています。
階段室はバルタザール・ノイマンによる設計。
photo:04



ファルケンルスト
宮殿から2kmほど離れた森の中にあり、2階建ての母屋と狩りの獲物を入れる小屋からなり、母屋の1階と2階は同じつくりで、1階が来賓用、2階が選帝侯の憩いの場になっていました。また1階には18世紀当時流行っていた中国風の装飾(シノワズリ)が施されている部屋があって、中国製の茶器を持つクレメンスの肖像画もあります。
こちらもフランソワの設計。
photo:02



photo:03


シュロス庭園
バロック様式の庭園で上記のふたつの施設をつなぐ。
photo:05


歴史
18世紀
ケルンの大司教で選帝侯でもあったクレメンス・アウグストゥスが建設を命じ、40年の歳月を経て完成しました。

その後、兄カールの助言を得て、
1727年からは
フランソワ・ド・キュヴィイエの設計で派手な建物に改築しました。

1729年には
ファルケンルストの建設が開始され、
1740年
完成しました。
photo:06


1984年には
文化遺産として世界遺産に登録されました。






特徴
ドイツにおけるロココ様式の最高傑作と呼ばれる華麗な装飾が特徴で、ファルケンルストでは更に当時流行していたシノワズリを観る事も出来ます。


逸話・伝説
・名うての芸術家たちを集めた建設は約40年もの歳月をかけ、建築費はなんと当初の15倍にも跳ね上がってしまったそうで、完成後、クレメンスは多額の借金を抱える羽目になったそうです。
・1994年までは宮殿は、ドイツの大統領が国賓をもてなすレセプション・ホールとして使用されました。

登録基準詳細
(2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
(4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。


関連用語
選帝侯 、神聖ローマ帝国において、ドイツ王ないしローマ王(すなわち神聖ローマ皇帝)に対する選挙権(選定権)を有した諸侯のことである。
ロココ様式 バロックに続く時代の美術様式を指す。18世紀、ルイ15世のフランス宮廷から始まり、ヨーロッパの他国にも伝えられ、流行した。
シノワズリ ヨーロッパで流行した中国趣味の美術様式で、中国をイメージし、非対称の縮尺や、漆など独特の素材や装飾を用いた様式が特徴である。ヨーロッパでシノワズリが流行を始めたのは、17世紀半ばから後半頃と伝えられる。18世紀の中ごろにロココ趣味と融合し、人気が最高潮となった。


関連遺産



☆☆植から目線コメント☆☆
調べてみると、
大司教でありながらも
聖職者になりたがらなかったり、
仮面舞踏会にハマったり
気分で政治の方針をころころ変えたりと
精神的に安定しない人物だったみたいですが、
そんな彼が残した宮殿は
時代が進んでも今なお
傑作として高評価です。

植竹でした。