タッタの歴史的建造物( パキスタン) | 世界遺産検定のお勉強ブログ(現在休止中)

タッタの歴史的建造物( パキスタン)

植竹です!

今回はパキスタンタッタの歴史的建造物を紹介します!

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公式テキストキャッチフレーズ
3王朝の首都となったインダスの交易都市

タッタの歴史的建造物
パキスタン・イスラム共和国


登録年…1981年
拡張年
危機遺産登録

英名…Historical Monuments of Thatta
仏名…Monuments historiques de Thatta


位置…パキスタン南部・シンド地方
経緯…N24 46 0 E67 54 0
面積…??

登録区分…文化遺産
登録基準…(3)
登録ID…143




公式テキスト分類…アジアの都市遺跡
公式テキスト掲載ページ…第①巻78p
公式サイトユネスコ本部(英語)

概要
タッタの歴史的建造物は14~18世紀にかけて、インダス河の港湾都市として栄えた場所で、サンマー朝、アルグン朝、タルハーン朝という3つの土着の王朝が首都を置いた場所です。途中、ムガル帝国の支配下に入り、18世紀中ごろにはペルシアの攻撃で滅亡しましたが、当時の繁栄を思わせる遺跡が現存しています。
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また、近郊のマクリの丘には100万もの墳墓が残されたイスラム世界最大の墓地もあります。
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構成
ジャミー・マスジド
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バードシャーヒー・モスク
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マクリの丘
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歴史
この場所は古くからマウリヤ朝アケメネス朝ペルシアなど支配者が転々としていました。

1335年からは
サンマー朝がこの地を首都にしました。

1485年頃には
アルグン朝に侵略されました。

1554年には
続いてタルハーン朝がこの地を首都としました。

1592年には
ムガル帝国の支配下に入りました。

1647年からは
シャー・ジャハーンの治世に文化財が建てられました。

1658年には
バードシャーヒー・モスクが建てられました。

1739年には
イランからナーディル・シャーが攻めて来るとタッタは陥落し、放棄されました。

1981年
文化遺産として世界さんに登録されました。


特徴
各王朝の時代から残る墳墓と、ムガル帝国時代にシャー・ジャハーンによって建設された文化財からなり、100万を超す墳墓と、青を基調とした彩釉タイルや彩釉レンガで覆われたジャミー・マスジドなどが現存しています。

逸話・伝説

登録基準詳細
(3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。


関連用語
インダス河 インド亜大陸を流れる主要河川。 チベット自治区のマナサロワール湖の近くのチベット高原から始まり、ジャンムー・カシミール州のラダックを通る。その後、ギルギット・バルティスタン州を通り、パキスタンを南に抜け、パキスタンの港都市カラチの近くのアラビア海に注いでいる。インダス川の長さは3,180Kmで、パキスタン最大の河川である。 インダス川の流域面積は1,165,000Km2以上である。
ムガル帝国 1526年からインド南部を除くインド亜大陸を支配し、1858年まで存続したイスラム王朝。
ペルシア帝国 現在のイランを中心に成立していた歴史上の国家を指し、一般的にはアケメネス朝・アルサケス朝・サーサーン朝に対する総称である。
マウリヤ朝 古代インドで栄えたマガダ国に興った王朝である。紀元前317年頃、チャンドラグプタによって建国された。アショーカ王の時に全盛期を迎え、南端部分を除くインド亜大陸全域を統一した。
アケメネス朝 古代イランにおこったとされる王朝・帝国。
シャー・ジャハーン ムガル帝国の第5代皇帝(在位:1628年~1658年)。第4代皇帝ジャハーンギールの第3皇子で1628年帝位につき、1658年、第3皇子アウラングゼーブに簒奪されるまで統治にあたった。



関連遺産
ラホール城とシャーラマール庭園(1983年、パキスタン)
タージ・マハル(1983年、インド)
アーグラ城(1983年、インド)
レッド・フォート建造物群(2007年、インド)
どれもムガル帝国のシャー・ジャハーン帝が建てた遺跡が含まれています。


☆☆植から目線コメント☆☆
彩釉タイルのモスク、綺麗ですね!なんとバードシャヒー・モスクには101ものドームがあるんだとか!
大してマクリの丘の墳墓もイスラム建築な感じがむんむんで是非是非今すぐにでも行きたい場所です。

植竹でした。