「大衆時代」における知識人の役割―9 | ueno63jのブログ

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ただし「個であること」だけで満足しているようなら、それは大きな間違いである。現代は大衆の没個性的な動向に左右される時代でありながら、その一方で(矛盾しているようだが)「個人の自由」がやたらと声高に叫ばれている世の中でもある。このことも先で少し触れたが、個々人がそれぞれ自分(自分たち)の権利ばかりを主張して、相手の立場や事情を考慮したり相手の主張の内容をしっかりと受け止めて検討するということをしない。Aさんの「個」とBさんの「個」の間には意図的に模索された実り多い接点が無く、一致点があるとしてもそれは或る物事に対する双方の見方が「常識」というあいまいな基準にのっとって「たまたま」一致していると言うに過ぎない。このように現代人の人と人とのつながりは非常にもろく、不安定になってしまっているのである。

なぜだろうか? 考えられる理由として次の二点を挙げることが出来る。まず一つ目はこうである。現代人は「個」の主張ばかりを繰り返すが、自分たちが声を大にして主張する権利や要求に対し自分で責任を持とうとしない。自分の主張が思わしくない結果を引き出した時、人々はそのような結果しか引き出せなかった権威当局や一部の代表者に責任を押しつけ、あたかも彼らだけが悪かったかのように非難を繰り返すのだ。そうしてそもそもその主張をした当事者は「自分」(自分たち)なのだということをきれいさっぱり忘れてしまうか、あるいは意図的に責任転嫁して自分を正当化しようとするのである。責任を問われるのが怖いからである。つまり現代大衆社会における「大衆」とは、言い換えれば自分(自分たち)に都合の良い権利や要求の主張ばかりを繰り返し、いざとなると責任を負おうとしない「無責任な人々の集まり」ということなのだ。

次に考えられることは、「個」の主張を繰り返す個人同士、団体同士の間に、それぞれの「個」より上位に位置する共通の価値観が無い、ということである。この上位の価値観こそが個々人の主張に或る種のバランスを与え、相手に譲歩すべきことは何で、どこまで譲るべきかを明確にし、主張すべきことは何で、どこまで確信をもって主張出来るのかといったことを明確にするのである。昔の西洋ではそれがキリスト教だったし日本の武家社会においては武士道だった。このような規範があってすら人間社会は理不尽な紛糾や争いが絶えなかったのに、こうした「規範=上位の価値観」が失われてしまった現代が混沌と紛糾に満ち溢れているのは当然であろう。

では、現代人に失われているこの二つのもの「責任」と「規範(上位の価値観)」をどうやって手に入れるのか? これらが身につかない限り現代大衆社会はいつまでも「悪化した大衆社会=衆愚社会」のままであり、いや、その状態のままであれば最良で、間違いなくもっと悪化して取り返しのつかない悲劇を繰り返すことになるだろう。結論を先に言おう。自ら「責任」をとることを実践して示しつつ大衆に責任をとるとはどういうことかを教え、「規範」の確立をいつも意識して模索し、「個であること」の大切さを自覚しつつも常に「個」(自分)以上のものに意識を向けている者こそが、現代大衆社会における「知識人」なのである。解りやすく言い換えると、知識人とは「大衆の教師」である。

では「大衆の教師」を目指すにはどのような資格や資質が必要なのだろうか? まずは自分の言動に責任と誇りが持てるように社会的に或る一定水準以上のイニシアティヴを持たなければならない。以前のように「特権階級」という肩書が無くなった今、知識人は自分の言動を人々に納得してもらうに足るだけの「実績」が問われるということだ。

次に持論に対する完全な理解と、その持論を展開するに当たって人々に解りやすく説得力ある形で伝えるという表現能力の養成が課題として挙げられる。難しい内容を難しく伝えるのは誰でも出来る(解りやすい内容を難しく伝えるのは論外だが)ことであろうが、現代大衆時代の知識人に求められる資質は、難しい内容をどれだけ噛み砕いて大衆に解りやすい言葉で伝えられるか、というところにある。そのためには展開した持論に精通し、どこをどう切ったり貼ったりすればより解りやすく明確に伝わるか、常に検討しておかなければならないということである。