歴史の町栃木市、勝道上人


勝道は奈良時代に日光を開山した名僧である。伝承では、父は
下野国府の役人の
若田高藤介で、母は芳賀郡高岡郷
の吉田氏の出であるという。
子のないことを嘆いた
高藤介夫妻が
「伊豆留(出流)岩屋」の
「千手霊像」に悲願し、勝道を
授かったという。
勝道は20歳のとき、出流山に
籠ること3年、さらに北にある
剣ヶ峯で3年を送り、再び
出流山に戻り修行した。
天平宝字5年(761)、に薬師寺で
特度し、5年間修行した後、
再び剣ヶ峯の頂上に登り、そこから北の方向に霊峰(男体山)を望み
登頂しょうと決意し日光に向かった。神護景雲元年(765)、大谷川を渡り、四本龍寺を創建し、
天応2年(782)に3度目の挑戦で
登頂に成功した。
栃木市北部の山間地、出流町に
天平神護元年(765)、勝道上人の
開基と伝える満願寺がある。
真言宗智山派に属し、
出流山千手院と号す。本尊は
十一面千手観音であり、
坂東33観音第17番札所である。
山門(仁王門を)入ると、出流川
の渓流に沿って
本堂(大御堂。県指定文化財)・
薬師堂・如連地蔵堂・聖天堂・
奥の院行堂と続き、大悲の滝から
石段を上った剣ヶ山腹に奥の院
拝殿があり、鍾乳洞を奥の院と
称している。窟内には本尊に
似た高さ約3Mの鍾乳石がある。
高藤介夫妻が祈願したという
霊像である。古代の歴史は不評
だが、「蔗軒目録」
文明18年(1486)条に
「下野国出流観音」とある。
元亀元年(1570)に醍醐寺の僧
尭雅は東国・陸奥を巡歴し、9月
宝連寺(鍋山町)で印可を与え、
翌年1月に出流に移り、別当坊で
印可を授けた。この間、
結録水丁を行っている。
江戸時代は醍醐寺無量寺の末寺であり、寛永3年(1626)に
3代将軍家光より出流村のうちに
50石を認める朱印状を賜った。
境内に末寺四、門徒寺三があり
門前には宿屋が軒を連ね繁栄した
という。元文5年(1740)に堂塔を
焼失し、本堂は明和元年(1764)に
再建した。元和2年(1865)にも
火災にかかるが本堂と山門うは
焼失を免れた。



栃木市の歴史を歩く
影山博先生のご本を拝借いたしました。
栃木市は歴史が沢山ありますね
楽しみな故郷の栃木市

子供の出流山満願寺さんの
思い出、縁日の日は沢山の
屋台が、出店して賑やかでした。小学生の分校があり
中学生から私達と同じになりました。もう67年も経ちます

最後迄読んで頂きありがとうございます。

2024年5月25日投稿