栃木県をもっと知りたい

下野市から



蝦夷との防衛ライン

栃木県下野市

下野薬師寺跡



自治医大から東へ、行くと









周囲より少し高い土地が



見えてくる。

761年、僧の受戒のため

の戒壇がおかれ、

奈良・東大寺。
福岡・観世音寺と並ぶ
三戒壇に数えられた
下野薬師寺の跡だ。

伽藍は失われ、法灯を
継ぐ安国寺の六角堂前に
立つ戒壇跡伝承地の
石碑や、復元された
回廊の一部がわずかに
往時を、しのばせる。

地方豪族が創建したと
みられるが、奈良時代
には国が造営を行って
いたことが文献から
分かる。
なぜ奈良の都から離れた
この地に官寺を造り、
戒壇を置いたのか
不思議だが、下野市では
蝦夷のとの最終防衛
ラインとして陸奥に
接する下野が重要視
されたのではたないかと

推測されている。

最近の発掘調査で、約100m

四方の回廊内に、一つの塔と

三つの基壇建物を持つ伽藍配置が

確認された。東国仏教の拠点に

ふさわしい大寺院だったことが

うかがえるが、建物はすべて

規模が異なり、どれが金堂なのか

はっきりしないと言う。

称徳天皇のもとで権勢を

ふるいながら、天皇の死後、

ここに左遷されて、

道教が住んでいた場所も

分かっていない。こうした

なぞの解明に向け、市教委は

今も発掘を進めている。


記事は当時の早川保夫さんの

日本史を歩くを拝借させて

頂きました。




自治医大駅です。


下野薬師寺歴史館の案内版あり


道教最期の地


下野薬師寺回廊の復元
安国寺の六角堂
薬師寺の戒壇跡と伝わる
場所に立つ。


道教について。

◎?-772奈良時代の僧。

河内の人。俗姓弓削ゆげ氏

称徳天皇の寵を受け、

太政大臣禅師に、次いで

法王位に昇り、政界に権威を

ふるった。のち皇位に就こうと

したが、和気清麻呂らの妨害に

あい失敗。天皇の死後失脚し、

造下野国薬師寺別当に左遷され

その地で没した。

宝亀3年4月7日ここで死に、

無位無冠として葬られた。


◎国の史跡に指定されている。

栃木県南部、鬼怒川右岸に広がる

広大な平野上に位置します。



◎画像、記事等をネットより

転記させて頂きました。

私が行きましたのが、20年位前

で記憶が古いのと自身も古く

なりましたので、誤字等あるかと

おもいますがお許しください。

最後まで読んで頂き

ありがとうございます。