徳川家康が没した。
家康の遺骸は駿州久能山
に葬られたが、翌年の
元和3年(1617年)3月に
日光に移された。家康の
霊廟参拝が幕府によって
制度化されて、日光参りが始まり千住から宇都宮
まで奥州街道を経て日光
に往く道程を日光街道と
呼ぶようになった。
この時から江戸時代末期
まで徳川幕府とともに、
歩んだ日光街道の
スト-リ-が始まり、また
今や世界文化遺産となった、日光の輝かしい
歴史がスタ-トしたことになる。
2代将軍秀忠が初めて
日光社参に赴いたのは、

家康の、霊柩が安置された直後の元和3年4月で




この時は京都の公家
日野資勝も同時に日光に
向かった。後に毎年4月

例祭に朝廷から派遣される

ことになった。

日光例幣使の第1号である。

資勝の記録によると、道中

越ヶ谷で昼食をとったことが

記されており、すでに越ヶ谷宿

はそこそこ賑わっていたようだ。

しかしながら街道が出来て

間もないこの頃はまだ道路も

宿場も不備で、大水に遭って

大勢の死者が出たり、宿場で

荷物が紛失したり・・・で

道中は苦難続きだったようだ。

今は車でも東武スぺ-シアでも

2時間とかからない160キロ

足らずの道程に、何と片道

5日間を要した。


彩の社、第2号

の記事を

お借りして投稿させていだきました。

最後迄読んで頂きありがとうございます。